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バイオインタビュー 古屋圭三さん、4回目

Synta社の古屋さんのインタビューの第4回目をお送りします。

バイオインタビューでは、バイオベンチャーを初めとしたライフサイエンス分野で活躍している日本人をインタビューし、彼等がどう思い、どう行動し、どういう結果を生み出し、これからどういう成果を生み出そうとしているのかについて綴っていきたいと思います。


このインタビューの主眼は、専門的な技術の解説ではなく、インタビューをうける人の「人間性」です。難しい専門用語も出てきますが、分からない言葉はとばして読んでいってください。それが分からなくても読み進められるようになっています。


では、古屋氏のインタビューの第4回目の始まりです。

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目次

・化学の富士から医薬の塩野義へ

・実験結果の多面性を見抜け

・立ち入り禁止

・華麗なる隠遁生活

・立ち入り禁止解除

・日本に親会社を持つアメリカのバイオテックの運命

 【編集後記】
 
 【インタビューへの感想をお寄せ下さい】

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◇化学の富士から医薬の塩野義へ

【清宮】: シリーズ3回目では、米国での医薬研究開発の展開のお話のみならず、医薬業界の将来展望や、日本製薬企業のグローバル化への警鐘等、大変示唆に富んだご意見もきかせていただき、ありがとうございました。

シリーズ3回目の最後では、富士の医薬事業からの撤退と、FIP社の売却、更に、古屋さんを含む、5名もの方々の辞職と、自分たちの夢に向かっての新たな出発という劇的な場面で終了しました。

古屋さん: 物事は「山あり谷あり」が当たり前で、「順風満帆」であり続けることはないと思っています。「人生万事塞翁が馬」という言葉は、気負いがなくて、それでいて、示唆に富んでいて、私の好きな言葉のひとつです。悪いことが起きる度に、私は、「これは、きっとチャンスなんだなぁ」と考えます。今思うと、富士の医薬からの完全撤退は、次のステップに進むいい機会でした。

【清宮】: 富士をやめて、次のバイオテックであるSBR社の創設に関わっていくことになるのですね。

【古屋さん】: 富士をやめたとき、幸運なことに、丁度、塩野義製薬が新しくアメリカでの研究基地を創ろうとしていました。前社長の塩野氏(故人)と直接会う機会も得られ、SBR社を成功させるというミッションを負って、5名全員がこの新しい塩野義のプロジェクトに参画しました。

【清宮】: 写真の富士と医薬の塩野義が作ったバイオテックにはやはり違いがありましたか?

【古屋さん】: まず大きな違いは、「なぜ、医薬か」というような議論や説得が必要なかったことです。「医薬を創る」ということにだけフォーカスできたのは、本当にありがたいことでした。医薬会社で働いておられる方々は当たり前すぎて、その有難みを感じることはないと思いますが(笑)。
 
【清宮】: 余計な定義に労力を使わなくなった分、本来の仕事に没頭できたのではないでしょうか?

【古屋さん】: そうですね。すぐに、ビジョン創りからスタートできました。5年間で、創造的かつ効率的なディスカバリーエンジンを創る。そのために、FIP社には無かった「化学」を自前で持つというだけでなく、ケミストリードリブン(化学先導型)ディスカバリー研究所にしようとしました。しかも、「創造性」を優先順位の一番に持ってきました。言わば、大学の研究室の延長のような、面白いと思う研究だけが出来るラボを創ろうとしたのです。


◇実験結果の多面性を見抜け


【清宮】: とにかく研究に没頭したということでしょうか?

【古屋さん】: するべき理由がひとつでもあれば、とにかく実験をするという感じでした。駄目な理由を見つけるのは、誰にでもできます。論文を読めば読むほど、サーチすればするほど、駄目な理由は見つけられます。だから、前向きに考え、前向きにチャレンジしました。皆、考えが浮かぶと、即実験をしました。

それから、イノベーティブであること、フレキシブル(柔軟)な発想や感性を持つことを勧めました。サイエンスは一種のアートだと感じることがあります。もちろん合理性や論理性、データドリブンなのですが、同じデータを見ても、どう解釈するか、もっと言えば、どう感じるか、で意味が変わってしまいます。

【清宮】: 実験結果に限らず物事には多くの側面がありますからね。

【古屋さん】: 実験の前に立てた仮説と違う実験結果が出た際などは特に研究者の感じ方でその後の展開に大きな差が生まれます。サイエンティストは実験に対してとても思い入れがありますから、期待に反するデータが出た時には、やはり失望してしまいます。しかし、そのデータは、いかなる理由があったとしても、紛れも無い事実であり、そのデータは、何かを訴えています。それを、それが感じられるかどうかは、メッセージを受け取る側の感性に委ねられているのだと思います。その感性のためには、基礎としての十分な知識も必要ですが、心の持ち様も重要であると思います。

【清宮】: 抗生物質・ペニシリンの発見を思い起こさせます。Alexander Flemingがブドウ球菌の培養の中のカビを“培養失敗”と捉えて捨ててしまっていたらペニシリンは発見されなかったかもしれません。しかし彼は、彼独自の感性で失敗を大成功に転化させました。

クリエイテビティを高めるために、会社として何らかの努力はされたのでしょうか?

【古屋さん】: 会社としてのフォーマルなシステム(レポーティングシステムやデシジョンメイキングシステム)等のプライオリティを故意に下げ、自由でイノベイティブな感性が溢れた研究所にしようとしました。

その甲斐あって、様々なアイデイアが生まれ、果敢に実験が進められ、有望なデータがどんどん出るようなディスカバリーエンジンが育っていきました。“Screen or Die (化合物のスクリーニングをしてヒット化合物を見つけなければ、我々は生きられない)”というスローガンを掲げて、とにかく、アイデアを何かの形にする努力がスタートしました。


◇立ち入り禁止


【清宮】: Screen or Dieは化学会社出身の古屋さん達らしいスローガンです。スクリーンされた化合物の開発は順調でしたか?

【古屋さん】: 順調に進んだら良かったのですが、ディスカバリーエンジンの成長とは裏腹に、時を同じくして、トップマネージメントのビジョンが分かれて行ったため、化合物の開発は私たちが理想と考えるような方向には進みませんでした。

私達は創造性を重視したSBR社にしかできないFirst-in-Class(新規薬)を志向しましたが、それは、ケミカルモディフィケーションによるMe Too(改良型薬)の開発を進めたいマネジメントグループと完全に衝突してしまいました。

【清宮】: ビジネスの方向性で対立してしまったのですね。この対立はどのように解決されたのでしょうか?

【古屋さん】: その後、問題は多くの要因を含んで複雑化し、マネジメントの分裂と言う局面に向かいました。

会社設立2年を迎えた頃です。私は、社長の部屋に突然呼ばれました。そこには、相手側の参謀や味方だと思っていた総務の代表がおり、一枚の手紙が目の前に差し出されました。

そこには、「本日5時までにこの建物から出なさい。このビルデイングへの今後の立ち入りを禁ずる」とありました。法的に勝ち目が無いと悟った私は、その数時間後には、何箱かの私物の入ったダンボール箱を抱えて、オフィスを出、会社を後にしました。

【清宮】: 映画みたいですね。

【古屋さん】: 会社を追われる事態となったわけですから、そのショックは大きかったですね。自分のことだけでなく、会社の従業員への責任や会社の将来のことを考えると、暗澹たる思いがしました。しかし、それは、アメリカ社会の厳しさを教えてくれるいい機会でした。


◇華麗なる隠遁生活


【清宮】: そんな手紙をもらうぐらいですから、マネージメントとどれほど強く対立したかが想像つきます。

ただ、今考えると、これも次の一歩の後押しになったのではないでしょうか。

【古屋さん】: 隠遁生活の後押しとなりました。基本的にはハーバード大学医学部でひっそりと研究を続けました。

ただ、精神的に、最も苦しい時期でした。「いつか必ず帰って、再び、理想のSBR社を創り、新薬研究をするのだ」という強い信念にだけ支えられていたような気がします。

当時はいろんな本を読みました。

城山三郎氏の「落日燃ゆ」に、広田弘毅がオランダ公使に左遷された時のことが描いてあります。「風車風の吹くまで昼寝かな」は、彼がその心境を託した一句です。彼は、体操、朝風呂、ロンドンタイムス、昼寝、散策、読書、情報収集、等を悠然として日々を送ったみたいです。不遇の時の処世というのは、その人の人生観や人間性が試されているとも言えます。

【清宮】: ちょっと忘れてしまいましたが、ある作家が「書けないときにでもとにかく机に座ること」といっていました。うまくいかないときには、その人なりのやり方でそれをやり過ごすことが必要なんでしょうね。

古屋さんはどんな処世をしていたのでしょうか?

【古屋さん】: 私は、水彩画を始めました。昔から、描いてみたかったのですが、機会を逸していたので、思い切って始めてみました。自分の感性を表現する手段を水彩画に求めました。その時に描いた水彩画の一つをお見せします。稚拙な絵だと自分でも思いますが、「憧れ」や「想い」みたいなものを、光で表現しています。

Love-water_color.jpg

【清宮】: 「憧れ」や「想い」というよりは、私には「渇き」が表現されていると思いました。

【古屋さん】: なるほど。それは自分では気付きませんでした。そういわれれば、したいことがなかなかできないという当時の自分の心境が「渇き」として反映されているのかもしれません。

絵を描くということをする前と、後とでは、目に映るものが、本当に嘘みたいに変わるというような経験をしました。影には様々な色があるし、樹の幹は決して茶色ではないし、水が青いなんていうこともないのだと気がつくようになりました。

そういう感性は、今、データやプロジェクトや会社を見るときにも、そして、自分の生き方を考える上でも、生かされていると自分では感じます。

【清宮】:  物事の多面性を見る力が養われたわけですね。

【古屋さん】: そうですね。

物事の多面性を見る感性を養うと同時に、当時は実践で使えるテクニックも積極的に学ぼうと思い、経営に関する本をたくさん読みました。

権力闘争に敗れて会社を追い出されるまでは、米国においても、日本式心情主体の自分なりのマネジメントスタイルの良さを信じてきましたが、さらに戦いにも勝てるパワフルな経営センスが必要だと思い知らされました。

特に、権力については当時よく考えをめぐらせました。

「権力」にはとかく悪いイメージが付きまといますが、「権力の効用」を信じないものは、経営者にはなれない、と伊藤肇氏は「現代の帝王学」の中で言っています。

人を組織し、会社を運営し、自ら権力を握って、正しい道へと導き、自他共に役立てる。これが政治であり、経営だと。

また、マキャヴェリの「君主論」のような思想を取り入れて、より結果を引き出せる、国際的に通用する戦略的かつパワフルなものを求めました。「君主論」は、ご存知のように、悪しき権謀術数の書として、禁書の列に加えられ、歴史の闇に葬ら去れたこともあります。

しかし、子が親を殺し、臣下が君主を滅ぼす現実を勇敢に見つめ、それを事実として科学的に理解、分析して生まれたものであり、日本に育った私などは、学ぶところの多い書です。文庫本になっている、唐津一氏の「マキャヴェリの経営語録」は今でもいつも持ち歩いています。

【清宮】: 殺戮や闘争の歴史の中から生み出されたマキャヴェリの「君主論」から、多くを学んだというエピソードは、古屋さんが、アメリカという厳しい社会のなかでいかに強くなって行ったか、または強くなろうとしたのかを物語っているような気がします。

ところで、当時の本業であった研究活動はいかがでしたか?

【古屋さん】: ハーバード医学部にいて、新しい研究にもチャレンジしてみましたし、いろいろな他分野の人達との交流もしました。分野の異なるセミナーにもぐりこんで、新しい目や自由な発想も養うことができました。

その当時の経験から、私はとにかく強くなりました。「まあ、死ぬことはない」みたいな感じになりました。大抵のことには動じない強さを身につけたことは、その後の研究開発にも会社運営にも大いに役立っています。


◇立ち入り禁止解除


【清宮】: ちょうどよい充電期間になったんでしょうね。

ところで、古屋さんの充電期間中にSBR社はどのような発展を遂げたのでしょうか?

SBR社はSynta社の前進となる会社です。一端SBR社を去った古屋さんは、その後SBR社、またはSBR社からSynta社への変遷にどう絡んでいったのでしょうか?

【古屋さん】: 隠遁期間中、塩野義の中でも、我々のサポートに関しては、賛否両論がありました。応援してくださる方々もおられ、最終的に、それらの方々の協力が得られて、約1年後に、旧マネジメントを追い出し、SBR社に戻りました。富士を同時に辞めた5名は、また同じ会社で働くことになりました。

帰ってきたSBR社は、多くの同僚が辞めており、唯一の制癌剤プロジェクトも挫折していたような悲惨な状況でした。早速、全く新しいSBR社の構築に着手しました。

このマネジメントの大転換の中で、多くの社員が翻弄されましたが、その間、SBR社のケミストリーを支え続けたDr. L. Sunは、Synta社のケミストリーの副社長として、今でも、私と共に医薬研究開発を楽しんでいます。

【清宮】: SBR社とのマネージメントとの衝突の中で、もし古屋さんが妥協してマネジメントの考えに同調していたとしたら、今の古屋さんは存在していなかったと思います。

塩野義も、古屋さん達のひたむきな姿をみて、再度SBR社に呼び戻したのだと思います。筋を通すことの大切さがよく分かります。

【古屋さん】: このインタヴューの初頭に言いました様に、「人生、山あり谷ありです」。これからも、山もありますが、谷もあります。ただ、そこを歩く人間が変わらなければ目的地にたどり着けるんだと思います。

SBR社に復帰して、新しいSBR社を創り始めました。現在、SYNTA社で臨床開発中の3つのプロジェクトも、その時に発進しました(http://www.syntapharma.com/PrdPipeline.aspx)。

IL12/23 (インターロイキン12/23)の選択的生成阻害によるImmuno-Modulator(免疫調整薬)であるSTA-5326、癌細胞選択的Hsp70生成促進免疫活性化による制癌剤であるSTA-4783、チューブリン新規結合部位をもつ耐性癌細胞にも有効なSTA-5312。いずれも、SBR社復帰後、2年間で、創り上げた化合物であり、新薬の卵たちです。その他にも、多くの面白いプロジェクトを立ち上げ、多くのヒット化合物やリード化合物を創生しました。

【清宮】:  現在のSYNTA社の礎となった化合物は、その時に、創り出されたものなのですね。

【古屋さん】: 薬の卵達だけではありません。SYNTA社のカルチャーの礎も、その当時に創りだしました。一種のWe(私達)カルチャー、ファミリーカルチャーもです。新入社員を雇う際も、常に、自分たちの家族のメンバーを選ぶつもりで探しました。

CV(履歴書)をスクリーニングし、電話インタビューして数人に絞込み、一人一人を丸一日かけてインタヴューして、最終候補を選考しました。候補者に、「SBR社の将来はどうですか?」と訊かれたら、「SBR社は、あなたを含む私達が創る会社です。ファミリーメンバーのあなたによって、その将来は決まります。」と応えました。その当時、待遇(給与や保険等)は、他社に比べると低かったのにも関わらず、ファミリーメンバーになってくれた多くのサイエンティストは、今も一緒に薬を創り続けています。

それから、バイオロジーとケミストリーとDMPK(薬物動態)を効率良く複合した、独自の機動的「ディスカバリーエンジン」の礎も、その当時に創ったと言えます。

多分、次回のインタヴューの時にお話しする機会があると思うのですが、SYNTA社の様々なカルチャー的特徴や、臨床候補化合物、ユニークなディスカバリーエンジン等は、その当時にその基礎ができたのだと思います(http://www.dddmag.com/ShowPR.aspx?PUBCODE=016&ACCT=1600000100&ISSUE=0405&RELTYPE=PR&ORIGRELTYPE=CVS&PRODCODE=00000000&PRODLETT=AA)


◇日本に親会社を持つアメリカのバイオテックの行く末


【清宮】: 苦しい時代を経たからこそ、絆を大事にしたのでしょうね。

親会社である塩野義との絆も強化されましたか?

【古屋さん】: 残念ながら絆は深められませんでした。

SBR社は51%の株式を塩野義が持ち、100%資金を受けて運営していました。

富士の場合もそうなのですが、日本の会社が投資して創ったアメリカの会社は、結局は、日本の本体の単なる支店なのです。経営意思決定をする人が、本体に所属していたら、本体の利益を優先させてしまいます。

そういう日本の会社のアメリカ支店では、本社の意向を常に確認する必要がありますので、迅速な意思決定ができません。本社と支店の利害が合わなかった場合はなおさらです。つまり、日本に親会社を持ったバイオテックは、アメリカでの厳しい生存競争を勝ち抜いていくことは難しいと思います。

【清宮】: つまり、SBR社も生き残ることができなかったわけですね?

【古屋さん】: 塩野義は、SBR社の価値を認めることなく、クローズすることを決めました。創設から、5年目でした。

ただ、正直、想定の範囲内です。これを機会に大きく展開しようと考えました。本当のアメリカバイオベンチャーを創り、医薬を生み出そうと。

【清宮】:  それが、今のSynta社となるわけですね。

【古屋さん】: そうです。現在のSynta社のCEO(最高経営責任者)・Dr. Safi Bahcallとの出逢いをきっかけにして、これまでに創り上げてきたデスカバリーエンジンやリード化合物を駆使した、100%アメリカ資本経営の本格的かつ画期的なターボチャージミニ製薬企業であるSynta社が生まれます。


〜〜〜第4部おしまい〜〜


【編集後記】
とにかく意志を貫いていくこと。それが大事ということがこの第4部で良く分かりました。

類は友を呼ぶといいますが、意志を持って行動していけば、サポーターが回りに自然と集まって来るということも分かりました。

富士のアメリカ子会社からSBR社に参加できたり、一端解雇されたSBRから呼び戻されたりしたのは、幸運な偶然ではなく、古屋さんの強い意志があっての必然だったのでしょう。

いよいよ、次回が、最終回。

必然的にたどり着いたSynta社の創生と成長、現在の活動や開発中の化合物の今後の展望についてお聞きしたいと思います。

さらに、第一回のインタヴューのコメントで古屋さんが言われた、「100%成功する秘訣」の種明かしもあります。

次回、最終回をお楽しみに。


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