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バイオインタビュー 古屋圭三さん、3回目

金曜日のメルマガでお伝えしましたように、日曜特別号(バイオインタビュー)として、Synta社の古屋さんのインタビューの第3回目をお送りします。

バイオインタビューでは、バイオベンチャーを初めとしたライフサイエンス分野で活躍している日本人をインタビューし、彼等がどう思い、どう行動し、どういう結果を生み出し、これからどういう成果を生み出そうとしているのかについて綴っていきたいと思います。


このインタビューの主眼は、専門的な技術の解説ではなく、インタビューをうける人の「人間性」です。難しい専門用語も出てきますが、分からない言葉はとばして読んでいってください。それが分からなくても読み進められるようになっています。


では、古屋氏のインタビューの第3回目の始まりです。


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目次

 ・前回のおさらい

 ・アメリカで学んだ日本の文化。アメリカに根付かせた日本の文化

 ・都合の悪いことは起こらないと考える日本人

 ・メガファーマとバイオテックの住み分け

 ・富士が医薬ビジネスに本格参入

 ・思考と行動が直結

 ・富士が医薬ビジネスから撤退。人生の岐路にたつ古屋さん

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◇前回のおさらい


【清宮】 シリーズ2回目では、渡米後、グローバルな視野を獲得しつつ、基礎研究から臨床開発への脱皮を遂げられ、その後、臨床試験中の化合物のライセンス導出というビジネスを経験し、Synta社の企業理念の根幹を成す価値感の原点見出すという古屋さんのアメリカでの初期の活躍ぶりを聞かせて頂きました。


アメリカでの新しい新薬研究開発へのチャレンジのお話は、古屋さんの情熱が伝わってきて、多くの読者からの、さらなる反響がありました。


いよいよ、今回は、「理想とする医薬研究開発会社を創り、患者さんを助ける新薬を創る」という社会的な使命に向けての古屋さんの次の展開をお伺いできるものと楽しみにしています。


【古屋さん】 これまでの2回のインタヴューに対して、身に余る沢山の前向きなコメントやメッセージをいただき、大変嬉しく思っています。


私の好きなミスターチルドレンの歌に、「息を切らしてさ、駆け抜けた道を、振り返りはしないのさ」 という詩があります。


「もっと大きなはずの自分を探す終わりなき旅」において、私もこれまで、振り返ることなく、ずっと駆け抜けてきたような気がします。


今回、こういう貴重な機会を頂き、自分のこれまでを、清宮さんの質問によって振り返ることは、私にとっても大変意味があると改めて認識しています。


さらには、多くの読者の皆さんからのメッセージによって、大いに励まされていることに対してもお礼を言いたいと思います。


【清宮】 私も、読者の方からのコメントはとても嬉しく思っています。ただ、2回目へのコメントがちょっとすくないのが残念ですが。これは私の力不足です。


2回目のインタビューでは秘密はありませんでしたが、1回目のインタヴューのコメントの最後で「100%成功する秘訣」という問いかけがありました。


こういう伏線への期待から1回目インタビューへの反応が大きかったのかもしれません。


私自身も、その回答、大変楽しみにしています。


【古屋さん】 コメントにも書きましたが、私の物語は、私だけのものですが、私の生き様から、何かを感じて、勇気を持って何かを始めようと思って下さる方が一人でもおられれば、このインタヴューは意味あるものになると思っています。


「夢は逃げない、逃げるのは自分から」、このインタヴューは私自身への、そういうメッセージでもあります。


また、「100%成功する秘訣」は、これまでの2回の私のインタヴューからもうお気付きの方も大勢おられると思いますが、最終回の種明かしまで、楽しみにして読んでもらえればと思っています。


◇アメリカで学んだ日本の文化。アメリカに根付かせた日本の文化


【清宮】 1回目の伏線があるので、読者の方は何が何でも古屋さんの物語を最後まで読むしかないですね。


ただ、伏線のみならず、今回のインタビューでは仕事以外のこともお話いただいており、「外交官」が夢だったことや、草の根的「国際交流や国際親善」等の古屋さんの真っ直ぐさが分かるエピソードなどはこのインタビューではとても楽しめる部分になっていいます。


アメリカに行って、日本の文化を再確認するようなこともありましたか?


【古屋さん】 世界のことを知らないだけでなく、日本のことをよく学んでこなかったことを、アメリカに来て、たびたび痛感しました。


日本のことについて、たとえば、神道について聞かれても、歌舞伎について聞かれても、ちゃんと理解していないし、説明できない。


そして、日本の良さについて再認識することも数多くありました。「空手」を習い始めたのも、そういう背景があってのことでした。


松涛館の道場の門をたたき、いい先生に巡り合うことができ、黒帯を取ることもできました。空手の修行を通じて、身をもって、その精神性を学び、道場の多くの外国人(私が外国人なのですが)の子供たちにもそれを伝える機会を持ちました。


「人格完成に努むること」「誠の道を守ること」というようなことを、日本で言う「躾」をきちんと受けていない子供に教えました。


一時もじっとしていることができなかった子供が、空手を学ぶうちに、きちんと長い時間座ることができるようになり、集中して練習に取り組めるようになっていくのは、面白かったですね。


【清宮】 アメリカで始められて、黒帯ですか?実は私も大学院の時に極真空手をしていました。


流派は違いますが、空手の練習の厳しさはよく分かります。どれだけ真剣に稽古されたかは手に取るように分かります。


「相田みつを」氏の「ともかく具体的に動いてごらん、具体的に動けば、具体的な答えが出るから」をここでも実践されたわけですね(2回目インタビュー参照。)。


【古屋さん】 空手で繋がっていたとは、奇遇ですね。ただし、フルコンタクトの極真との「組み手」は遠慮しておきます(笑)。


空手はアメリカに来て日本の文化の良さを再確認した例ですが、私がアメリカに持ち込んだ日本(中国)の文化もあります。それは反省という概念です。


現在、Synta社では、皆、良く、”Hansei(反省)”という言葉を使います。


ご存知のように、アメリカは弱肉強食の世界です。自由でもありますが、厳しい社会です。この戦いの中では、「自分の非を認める」ことではなく、論理的な「正当化」の能力の高めることが必要となります。


他人や社会に対してだけでなく、その能力は、いつしか自己にも向けられ、「反省」という力が著しく乏しくなっています。


「ごめんなさい」と言えば許されるような日本のしきたりも問題ですが、少なくとも、日本には「反省」という概念がまだ活きています。


実際、英語には「反省」に対応する単語がありません。それで、敢えて、“Hansei”という日本語を使いました。


始めは、かなり抵抗があったようですが、今では、Synta社のカルチャーのひとつになりました。Synta社は、“反省が必要だね”とアメリカ人が言う米国ベンチャー製薬企業です。

【清宮】 反省という概念はアメリカには無いわけですね。それははじめて知りました。ということは、企業カルチャーの中に「反省」がある米国ベンチャーはおそらくSynta社だけですね。


話は変わりますが、2005年12月23日のプレスリリースでSynta社の2006年のフォーカス領域が解説されています。


プレスリリースの発表によると、臨床開発では、2006年はクローン病やリウマチを対象にしたIL-12/IL-23阻害剤・STA-5326の開発を何よりも優先するということですね。


残念ながら、このSTA-5326は乾癬を対象にした後期第2相試験で有効性を示すことができませんでした。


個人的には、クローン病やリウマチと同じ自己免疫疾患の一つである乾癬を対象にした後期第2相試験で有効性を示せなかったSTA-5326でクローン病やリウマチでの有効性を示すことはとてもチャレンジングな試みと考えています。


ただ、この辺の決断にもHanseiという概念が取り入れられていたとしたらそれはとても興味深いです。STA-5326の開発については後ほど詳しく教えてください。


【古屋さん】  STA-5326の開発戦略は様々な要素が絡んでいますので一概には言えませんが、戦略設定にあたって確かにHanseiという概念は取り入れられています。それは後ほど説明します。


【清宮】 楽しみにしています。このインタビューの表の目的は古屋さんの人間性を知ることですが、裏の目的は実はSTA-5326の今後を占うことです。


個人的には、先を読むのがとても難しいバイオビジネスにおいてSTA-5326の開発戦略がいかにして設定されたのかにとても関心があります。


◇都合の悪いことは起こらないと考える日本人


【古屋さん】 社外秘もあるので、今後STA-5326の開発についてどこまで話せるかははっきり言えませんが、出来る限り紹介したいと思います。


清宮さんが指摘したように、「創薬」は、先が読めない本当に難しいビジネスです。


必要なクリティカルマスの確保やリストラクチャリングによる効率化などの理由で、今もまだ、統合や再編が進んでいて、ますます、メガファーマとしてのサバイバル合戦が続いています。


今や、ひとつの薬を作り出すのに、平均$1billion (1000億円以上)の投資が必要です。したがって、そのR&D(研究開発)の効率化へどう取り組むかは、製薬企業にとって死活問題です。


【清宮】 これは製薬業界全体の課題でもありますね。特に、日本製薬企業のグローバル化が不可欠な理由もそこにあるような気がします。


【古屋さん】 今や、日本の市場は世界マーケットの10%近くまで落ち込んでいます。


以前のように、日本の市場が世界マーケットの30%もあれば、日本を中心にやっていくことも何とかできたのかもしれませんが、もう、グローバル化なしでは生きていけない時代であることは確実です。投資回収がまずできません。


【清宮】 つまり日本という市場が縮小した今となっては過去の成功にしがみついていることは出来なくなっているわけですね。


お尻に火がついた日本の製薬企業のグローバル化について古屋さんはどんな印象を持っていますか?


【古屋さん】 この業界に関わらず、日本は、非常に遅れています。そして、追いつこうとしている姿勢も伝わってきます。


ただ、グローバル企業になりたがってはいますが、その体質も、判断も、行動も、まだまだ、「日本の薬の会社」であるところがほとんどだと思います。


日本製薬企業の批判をするつもりはないのですが、私の日本に対する思いであり、危惧であり、警鐘だと思って、前向きに捉えてくださると助かります。


これは日本人の特性なのかもしれませんが、これまでの歴史を見ても、プロアクティブ(前もって予測して事前に)に判断し行動することが下手だと思います。


自分に都合の悪いことは、起こらないで欲しいというキモチが、起こらないだろう、きっと起こらない、、、となってしまう。


北朝鮮も攻めてこないし、東京大地震も起きない。そして、それが起こって、ショックを受ける。


オイルショックのとき、世界でショックと言ったのは、日本だけだったと何かに書いてあったのを思い出します。


ただし、その予期せぬ(?)ショックに対しての、りアクティブな対処では、類稀なる団結力を駆使して、なんとか乗り越えていく。そういうことを繰り返してきたようなところがあります。


しかし、リーダーが育っていない。しかも、一致団結もできなくなってきている日本は、リアクティブにさえ動けず、その優位性を保てなくなっていくと思います。


「茹で蛙」の話は、皆が知っているものの、その「茹で蛙」本人が、なんとかなるだろうと、「茹で蛙」であることを容認してしまう。


うちの会社は、トップが駄目だから、、、なかなか古い体質で、、、部長は何にも分かってないから、、と「茹で蛙」を正当化してしまう。


中国やインドなどの新興勢力が大きく躍進していく次世代のグローバル化がさらに加速する今からの世の中では、「茹で蛙」は、茹だって死ぬしかありません。


ヴィジョンの明確化、強力なリーダーシップ、迅速な判断と行動が、不可欠です。


日本の製薬企業を訪ねて、「うちはデシジョン(決断)が早すぎて、、、」という愚痴は、今までかつて聞いたことがありません。


グローバル企業になることが不可欠なら、意識の大改革が不可欠であり、行動の大改革が不可欠です。今日(きょう)それをしないことは、死を意味します。


【清宮】 つかまってしまいましたが、ライブドアの堀江社長などは「時間を金で買う」ということを公言して憚りませんでした。


迅速に決定して時間や技術を先取りするぐらいの意識が日本の製薬会社にも必要かもしれません。


Merck社やAstraZeneca社などが小さなバイオベンチャーと次々に提携しているのはある意味時間やアイデアをお金で買っているわけで、そういう提携を日本の製薬会社もどんどんしていったら良いと思っています。


◇メガファーマとバイオテックの住み分け


【古屋さん】 メガファーマはバイオベンチャーによる提携で効率化を目指すと同時に、自社のR&Dも積極的に効率化しています。


先ほど、ひとつの薬を作り出すのに、平均$1billion (1000億円)の投資が必要で、そのR&D(研究開発)の効率化が重要だと言う話をしましたが、メガファーマはこの大金を効率よく使う方法を模索し始めています。

(小分子)創薬の難しいところは、「Attrition(目減り)」です。


とにかく、何十万個という化合物から、新規なデジーズターゲットに対するヒット化合物を見出し、何千個という化合物を合成して前臨床候補を作り出しても、臨床開発に生き残ってNDAに到達できるのは、インディケーションにも依るのですが、10~20%程度です。


これまで、前臨床までの段階でいかによい候補を選定して「Attrition」を下げるかに努力が払われてきましたが、最近では、「Attrition」はもう現実として認めよう。なるべく多くの化合物を臨床に上げて、臨床初期でPoC(Proof of Concept)を取れるかどうかを最低限の投資で判断しよう。という流れに変わってきました。


ラーニングフェーズ(臨床試験でPoCを取るまで)とコンファーメーションフェーズ(その後の認可のための開発)とに2分して、効率化を図ろうという流れです。


ラーニングフェーズでは、最低限の投資で、なるべく多くの候補を人間で試験する。


コンファーメーションフェーズでは、リスクを最小限にして大量投資で確実に認可を取る。というような2フェーズでのR&Dです。


第二フェーズは、多量の投資が必要で、バイオテックには不向きです。さらにコマーシャライズするのも、大手の得意とするところです。


一方、第一フェーズは、寧ろ、新規性や機動性があり、フレキシブルなバイオテックの方が得意であり、コストも、大企業と比べると格段に安いと言えます。


例えば、前臨床試験の平均期間は、数年前まで2年程度でした。その当時、Synta社の平均前臨床期間は、7ヶ月程度でした。今や、大企業でも1年以内を目指しています。


つまり、ディスカバリーから人でのデータによる早期判断までが、バイオテックの役割であり、それを薬として認可を取り、価値を最大限に引き出すのがメガファーマ、という住み分けが可能だと思われます。


◇富士が医薬ビジネスに本格参入


【清宮】 その点、日本の製薬企業は機動性があるバイオテックをうまく生かしきれてないように思います。


事実、日本の企業が海外のバイオテックと提携したというニュースは殆どありません。


古屋さんは、MKT-077導出によって、化合物がバイオテックからメガファーマの手に渡っていく過程を経験されているわけですが、このことは富士フィルムに対してどのような影響を及ぼしましたか?


【古屋さん】 MKT-077導出によるライセンス収入を得て、そのライブラリーの価値ばかりか、医薬ビジネスの潜在的な可能性を認識した富士フイルムは、医薬事業に参入しようと考えました。


MKT-077のAPI (有効成分の原末)供給のためのGMP製造工場を作り、神奈川の研究所内に医薬チームを作り、そして、L.B. Chen教授(Harvard)と利根川教授(MIT)と共に、ボストンから車で30分のレキシントンという街に、「FIP (Fuji Immuno-Pharmaceutical)社」を創設します。


ボスニア-ヘルツェゴビナ内戦が始まった1992年のことです。ついに、日米での共同医薬研究開発が始まりました。


私は、このFIP社の中にオフィスを構え、別の組織(Fuji USA, Pharmaceutical Representative Office)を独立に持ち、導出したMKT-077の臨床開発、米国での医薬事業の推進も、同時に進めていました。


このFIP社の創設や運営に接することができ、研究だけでなく、アメリカバイオテックの起業、資金、運営、、、というようなことを学ぶ機会を得ることができました。


このことは、その後の米国ベンチャー製薬企業創生への道を考える上で、大変役に立ちました。


【清宮】 富士フィルムが設立したFIP社では具体的にどのような研究活動をされていたのでしょうか?


【古屋さん】 FIP社は、「免疫」に研究フォーカスを置き、米国のバイオロジーと富士のケミストリーとのシナジーによる創薬を目指しました。富士からも新たな研究者が駐在員として参画しました。


Chen教授の牽引力は、このベンチャーで、遺憾なく発揮され、凄まじい勢いで医薬研究が進みました。


FIP社には、MITやハーバード博士号等を持った優秀な研究者たち集まってきました。そして、その意思決定や行動のスピードはとにかく速かった。


日本では経験したことのないスピードで、まるでジェトコースターに乗っているような毎日でした。


◇思考と行動が直結


【清宮】 優秀な人がベンチャーに集まるのって本当かなと思っていましたが、本当なんですね。


ところで、スピーディな意思決定や迅速な遂行、というのは、大企業の最も不得意とする部分でもありますが、具体的には、どのような感じなのでしょうか。

【古屋さん】 例えば、薬効試験用の動物室のスペースが足りないとなれば、3日の突貫工事で作ってしまう。


新しいHIV(エイズ)薬 プロジェクトを決めたら、あっと言う間に、P3施設を作り、データを生み出す。


最新のバイオロジー技術が必要となったら、その専門家をすぐに雇って、すぐにその技術を使う。ひとつのペーパーが、ひとつの実験データーが、日々、研究内容を進歩させていく機動性がありました。


【清宮】 思考と行動が直結しているわけですね。リーダーがやろうと思えば物事はすぐに進展するということが今ビリビリ伝わってきました。


しかも古屋さんが今教えてもらった状況は1990年代前半のことですから、今はもっと意思決定は加速しているんでしょうね。


昨日発表されたNatureの最新技術が今日は自分のラボでも取り入れられているみたいなこともあるわけですね。


【古屋さん】 いえ、論文が発表された時にはもう遅いと言えます。情報のネットワークが重要です。MITやHarvardの様な研究室で、毎日生まれるエキサイティングな発見を、いかに早くキャッチし、特許化も考慮して、その発見を自分たちの研究に取り入れ、新しいプロジェクトにして、新薬の卵につなげていくかが勝負です。


NatureやScienceで発表される時には、既に誰かの手の中にあると考えた方がいいでしょう。


「あのイオンチャンネルのクローニングのデータが、次のNatureに出るみたいだよ」というような会話は普通に行われています。


そのため、この4〜5年で多くの大手製薬企業がボストンに研究所を移しました。


ボストンのコミュニティに物理的に参加して、その情報のネットワークに入っていることは重要なのです。

【清宮】 なるほど。情報ネットワークですね。ネットが発達したとはいえ、当然のことながら直接のコンタクトで得られる生の情報は依然として重要なんですね。


世界と対等に渡り合おうと思ったら、活発な科学コミュニティーと生のやり取りが出来るコネクションは必要ですね。


日本の富士フィルムは、FIP社を通じて生の情報が飛び交う米国のバイオテックのすさまじいスピードを目の当たりにしたわけですが、富士はその波にうまくのることはできたのでしょうか?


◇富士が医薬ビジネスから撤退。人生の岐路にたつ古屋さん


【古屋さん】 日本側の企業体質が、医薬事業とはあまりにもかけ離れており、結論からいうと富士はそのスピードや文化の違いについていけませんでした。


私自身は、「たら、れば」論は、大嫌いですから、そういうことはこれまで考えたこともないのですが、あの当時、医薬事業への本格的参画の英断が下され、実行されていれば、富士はサンド社との共同開発や実験的ベンチャーFIP社という大きな成果をテコに、その後、それらの研究開発を医薬事業へと花開かせて行けたかもしれません。


残念ながら、富士は、FIP社を5年で閉じ、医薬からの完全撤退を決断します。


数人で始めた医薬への夢は、日米で数百人へ規模へと広がりを見せ、日本では社内で既にGMP工場も完成させていました。


しかし、医薬事業打ち切りの突然のデシジョンがあり、直ちに、帰国命令が出されました。


【清宮】 医薬事業の始まりの時点で「写真で大成功した企業体質やマネジメントが医薬には通用しない」と感じておられた古屋さんにしてみれば、この決断は「やっぱり」という感じだったのでしょうか?


【古屋さん】 そうですね、ショックというよりも、富士らしいデシジョンであり、ひとつのオプションであったと思いました。


そういう意味からは、残念ではありましたが、予想できた結果だったとも言えます。


医薬事業を成功させるという覚悟や意志がないのであれば、生半可なキモチで、やるべきではなかったと思います。


私としては、富士にしかできない医薬事業の展開戦略というのがあったように思います。


【清宮】 どんな戦略ですか?


【古屋さん】 富士は、化学のみならず、非常に多岐に渡るサイエンス(エレクトロニクス、バイオロジー、アナリティカル等々)をシナジスティックに複合することが可能である稀な会社です。


先にお話した「課長研修」の席で、私自身は、分社化して「医薬」を花開かせるが、富士としては、サイエンティフィックシナジーによる新しい「モノづくり」を目指すべきだと、主張しました。


医薬医療においても、多くの夢のような商品が、富士独自の技術集積により生み出せると考えていました。


ターゲットフォーミュレーションとか、新規の診断テクノロジーとかです。例えば、ナノパーティクル製剤が注目されていますが、富士では昔から、イメージングのための固体分散技術を確立していました。


【清宮】 異分野への参入は難しいものがあるのでしょうね。


結局、古屋さんが目指された分社化による「医薬」は完全撤退となったわけですが、その5年間の医薬R&Dの成果はメルク社などに受け継がれていったのでしょうか?


【古屋さん】 医薬事業からの完全撤退を決めるまでの5年間で、FIP社は、多くの研究成果を残しました。


それらは、Lexigen社(現メルク社)と塩野義(SBR-Shionogi BioResearch社)に受け継がれていくことになります。


その後、Lexigen社は、EMD Lexigen社(http://www.emdlexigen.com)として、SBR社は、Synta社として、生まれ変わっていくことになります。


新薬を待ち望む多くの患者さんを助けうる可能性を秘めた5年間の研究成果は今でもそれらの会社に受け継がれています。


【清宮】 研究成果が次の会社に引き継がれていく一方、帰国命令に対して古屋さんはどんな回答をしたのでしょうか?


【古屋さん】 帰国命令は私のひとつの大きな岐路でした。葛藤はありましたが、結局、「アメリカでの創薬」を続けようと決めました。


まず、「胸を張って、運命を受け入れなさい」と自分に言い聞かせました。これは失敗でも何でもない。人事は尽くした結果であり、それを胸を張って受け入れようと。


【清宮】 つまり、富士は医薬事業を撤退したけど、これまでの成果とその成果で得た自信は自分の中にちゃんと残ったわけですよね。


【古屋さん】 これまでの5年間で得た成果に誇りをもっていましたし、何よりもここで終わらせたくなかったし、終わらせたら一生後悔すると思いました。


そうして自分の勇気を奮い立たせました。


「勇気とは勝つことではなく逃げないことである」。その時には、既に、“自分のサイエンスを「医薬」という形で、世の中の人々に役立てたい”という新たな思いがありました。


そこから逃げないことが、自分にとっての「勇気」でした。そして、そう決めたら、後は「信念を実行に移しなさい、迷うことは無い」と自分に言い聞かせました。


【清宮】 古屋さん、この言葉は心に響きます。特にこれまでの古屋さんの活動を知っているだけに心に残ります。


FIP社には富士からの派遣社員も多数いたと思うのですが、やはり古屋さんと同じように自分を信じてアメリカにとどまった方はいたのでしょうか?


【古屋さん】 FIP社には、富士フイルムから多くのサイエンティストが派遣されたのですが、その中で、私を含めて、5名の研究者が、富士の医薬からの完全撤退を期に、会社を辞職して、アメリカに残る決断をしました。


偉そうなことを言いましたが、仲間がいなかったら、私とて、そういう決断ができたか分かりません。


その後、5人皆が、次のSBR社の創設に関わることになります。このFIP社での出会いは、この5人のそれからの人生を大きく変えていくことになります。


【清宮】 先月、富士が再度、医薬ビジネスに着手したとの報道がありました。


インタビュー第3部の最後として、1つ聞かせてください。


医薬事業からの完全撤退から約10年後の再参入をどのような気持ちで受け止められていますか?


【古屋さん】 医薬事業を立ち上げから撤退までずっと、「今、なぜ富士に医薬か」というような報告書や提案を、とにかく沢山提出しました。


仕事へのエネルギーの大半をそういうトップへの説得に使っていたことを考えると、今回のニュースは複雑な思いで受け止めざるを得ません。


大好きだった富士を辞職する際に、私を信頼してくれていた上司が、「富士のケミストリーから出発して、新しい医薬の芽を創るために、新天地を求めるのは正しいことだと思う」と激励してくれたことを思い出します。


今や、社外の人となり、こうして、全く別の形で、医薬研究開発の夢を追い続けていますが、今でも、推進チーム902の仲間と一緒に新薬開発をしている気持ちです。

いつか、富士にも恩返しできる時が来るように感じています。


〜〜〜〜〜第3部おしまい〜〜〜

ある意味、FIPまでの古屋さんは、富士フィルムという庇護者の下で、言葉は悪いですが、温室栽培の野菜のように大事に育ってきました。古屋さんはそこで力を蓄えていったのでしょう。

しかし富士という庇護者をなくした古屋さん。今後はこれまでに蓄えた知恵と勇気で、アメリカという「自由」ではあるが、「弱肉強食」で「厳しい社会」を乗り切っていかねばならなくなりました。


すなわち、古屋さんの本当のアドベンチャーは、富士の帰国命令を断ったときから始まったといえるでしょう。


次回は、厳しくも自由なアメリカ社会での古屋さんの奮闘ぶりをお伝えします。

古屋さん以外の4人の仲間がその後どうなったのかもとても気になるところです。


お楽しみに!

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コメント

近藤です。先日、古屋さんから名指しで返事をいただいた時は、嬉しさのあまり文字通り声を上げてしまいました。本当にリアルタイムに古屋さん本人が読んでくれていたのですね!

創薬の世界を何も知らない私には、毎回興味深い話ばかりです。そして今回も、創薬に限らず人間としての多くを学ばされました。

門外漢の富士フィルムはメガファーマシーのようには待てず、バイオベンチャーの速度や文化にはついて行けず、しかし古屋さんはそれらをよく理解していたから、プロアクティブに覚悟でき、何も会社のせいにせず、会社を大好きなまま辞職できたのですね。

誠の心を知る方にしかできない生き方だと思います。何より、自分の志から逃げない勇気に強く心打たれました。

後悔の全く無い人生は有り得無いとしても、自分の選択肢をしっかり見据え、後悔するような選択を極力避けてこそ、どうにか満足のいく人生になるのでしょうね。

個人の生き方から企業体質まで、日本人は未来に対するプロアクティブな覚悟に欠けているように思います。

しかし過去と向き合う時、英語圏の人々には「反省」という概念が無いとは知りませんでした。

にもかかわらず、非を認めず、真の改善が苦手なのがアメリカでなく日本社会なのは何故でしょう?薬害エイズ事件の謝罪までの長さは何だったのでしょう?

第二次世界大戦当時、アメリカの戦車は明らかに海洋民族の戦車で、大陸民族の戦車には見劣りしていましたが、湾岸戦争では大陸民族の作ったT84がM1に歯が立たなかったように、アメリカは民族性の弱点を乗り越えます。

火力や装甲に限らず、何事にも自分達の考えの甘さを認め、改善する意志力がアメリカには有り、日本には不足しているように思えます。

その力は「民族性」ではなく、「人類性」から来ている力であると思います。世界中の人種民族が集い、出身地では活かせなかった才能を活かし合い、利用し合うから、民族性によって封印された人類性が表に出てくるのだと思います。

民族性の枷から解き放たれた人間の底力は凄いものなのだろうと思います。

現政権の「画一主義」的アメリカではなく、アメリカに生きる一人ひとりの「共存主義」的アメリカが真のアメリカであり、失われた人類性を再構築できる場所なのだろうと思います。

民族である事より人間である事の方が大切だと解ってさえいれば、何らかの民族である事は価値有る事であり、自国文化を知り、関心の有る人に教えて上げられる事は重要だということも思い知らされました。

私も神道や歌舞伎についてろくに知りません。その上私の場合、習ったのが空手ではなく北派少林拳だから日本文化じゃないし、古屋さんより日本を知らない46歳で、「Hansei」しています。

近藤さん、素晴らしいメッセージ、ありがとうございます。

「西暦3000年、世界の中心都市はどこだろう?」。
スペイン、コルドバの回教寺院の荘厳な薄明かりの中で、私はそれをとても強く感じました。西暦1000年に、世界の中心都市であったその場所で。

「西暦3000年、きっと世界の中心都市は東洋にあるだろう」。
ニューヨークのマンハッタンのグランドゼロ。ツインタワー崩壊の犠牲者に祈りを捧げながら、そう思いました。西暦2000年に、世界の中心都市であったその場所で。

そして、次のミレニアムの担い手としての「日本」という国家や「日本人」の存在や進めべき道の意味の大きさをかみ締めました。

湾岸戦争の前夜に渡米し、クリントン政権、ブッシュ政権、9.11そしてイラク戦争。この15年、アメリカに生き、この世界最強の実験的国家が、経済的や社会的な要素だけでなく、「人間性」においても大きく変化しつつあるのを感じてきました。人種差別、学歴主義、保守主義、国粋主義、家庭内暴力、金至上主義、正当化と詭弁、間違った個人主義。近藤氏の言われる「人類性」を再構築できる「共存主義」的アメリカの存続の意義が、今、試されています。

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