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バイオインタビュー 古屋圭三さん、2回目

昨日のメルマガでお伝えしましたように、日曜特別号(バイオインタビュー)として、Synta社の古屋氏のインタビューの第2回目をお送りします。

バイオインタビューでは、バイオベンチャーを初めとしたライフサイエンス分野で活躍している日本人をインタビューし、彼等がどう思い、どう行動し、どういう結果を生み出し、これからどういう成果を生み出そうとしているのかについて綴っていきたいと思います。


このインタビューの主眼は、専門的な技術の解説ではなく、インタビューをうける人の「人間性」です。難しい専門用語も出てきますが、分からない言葉はとばして読んでいってください。それが分からなくても読み進められるようになっています。


では、古屋氏のインタビューの第2回目の始まりです。


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目次

 ・共感の輪

 ・古屋さんの子供の頃の夢

 ・世界から見た日本

 ・写真と医薬の違い

 ・アメリカで実験、日本とファックス通信

 ・前臨床から臨床へ

 ・しあわせはいつも じぶんのこころが きめる

 ・理想とする医薬研究開発会社の設立に向けて

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【清宮】本日は古屋さんインタヴューの2回目です。

1回目では、科学の神秘を追い求め、創造することが好きだった少年時代。


医薬分野におけるファインケミカルの可能性を早くから察知しつつもその扱いに困惑していた富士フィルム時代。


幸運な出会いを経て医薬の分野でのファインケミカルの可能性を見出し、ライブラリーの最適化にまい進した時代。


そして、Chen教授との出会いという幸運な出来事を経て、富士フィルムのファインケミカル事業から医薬の芽を育てるべく、ハーバード大学医学部での医薬研究のために渡米するまでのお話を伺いました。


大きな反響を呼んだ1回目に続き、本日お届けする2回目では、古屋さんの創造性がアメリカでどのように花開いていったかについてお話いただきたいと思います。よろしくお願いします。


【古屋さん】今回もどうぞよろしくお願いいたします。


前回は、私の個人的な少年時代の話や、私の生き方というような話までしまして、恥ずかしい思いもあったのですが、皆さんに、素直に読んでいただき、身に余る過分な扱いをしていただき、ほんとうにありがたく感じています。


◇共感の輪


【清宮】第1回目のインタビューへのコメントからも分かるように、読者の皆さんの多くが第1回目のインタビューで古屋さんから勇気をもらっていると思います。


仕事というのは、その成果自体も大事ですが、その成果が生まれた背景にあるその人の人間性や思いを伝えることで共感の輪がうまれます。


この共感の輪を作ることが「バイオインタビュー」の目的です。


古屋さんの背景を中心とした共感の輪から、何か新しい物が生まれてくることを期待しています。


さて、今回は、渡米からの話をお聞きしたいと思うのですが、その前に、古屋さんの子供の頃の夢は何だったのでしょうか?


第1回目では野を走り回る子供だったということだけで、子供時代の夢を聞きそびれていました。やはり、創造性溢れる「科学者」だったのでしょうか?


◇古屋さんの子供の頃の夢


【古屋さん】小学生の頃の私の夢は、「外交官」と「眼科医」になることでした。


「外交官」は、未だ見ぬ海外への憧れであり、「眼科医」は、母親の極度な近眼を治したいという単純な思いからでした。ハーバード医学部での研究生活は、その夢の続きのようでした。だから、あんなに夢中で毎日を生きていたのだと思います。


【清宮】「外交官」というのは面白いですね。コミュニケーションに興味があったのでしょうか?それとも外国に興味があったのでしょうか?


【古屋さん】前者です。子供の頃から、「人」が好きでした。外国には、いろんな人がいて、違う言葉や文化の中で暮らしているのだろうな。「そういう人たちと、友達になりたい」というような気持ちでした。


英語が大の苦手だったのにもかかわらず、街で白人に話しかけたり、ペンパル(古い言葉で、年が分かってしまいますね)を作ったりしました。


アメリカに来て、本当に良かったということが沢山あるのですが、ひとつには、「視野が大きく広がった」ということです。


自分を包む世の中をどう捉え、どう考え、どう行動するかは、ひとえに、「自分の目や心」によると思います。


アメリカの、特にコスモポリタンな街、ボストンに来て、自分のものの見方や考え方が、広くなっていくのが自分でも分かりました。


【清宮】なにかエピソードみたいなものがあったら、聞かせてください。


◇世界から見た日本


【古屋さん】DFCI(ダナファーバー癌研究所)に来て、チェン教授の研究室で、一人の中国人研究者と一緒に仕事をしました。彼女は北京大学出身で天安門事件の時もあの広場にいて、その後、アメリカに来た行動派の才女です。


北京でも、短波放送を通じて、多くの世界の情報に精通していた彼女は、日中の歴史認識はもちろんのこと、天安門後に一番に利潤追求のために中国政府に取り入った日本を、そして日本人をも嫌悪していました。


そういうことを考えたことすらなかったその頃の私は、ショックを受けました。


その彼女と一緒に研究し、次第に友人となり、彼女が「Keizo(アメリカではいつでもこう呼ばれています)と出会えて良かった。日本人が好きになれた。」と言ってくれた時の感動は忘れません。


彼女は、今カリフォルニアでIT関連の起業家としてがんばっていますし、今でも友人です。


私自身も、日本では知りえなかった多くの文化、国家、宗教的背景の違う友人たちとの交流を経て、多くのことを学び、また同時に多くのことも伝えました。


そういう意味では、草の根的「外交官」の役割を、沢山してきたと思いますし、これからもしていくことになると思います。


【清宮】氾濫する情報はあるものの、日本にいると、世界の人々が日本をどう思っているかというグローバルな感覚はなかなか実感として掴めないものです。


次世代を担う若い人たちに、是非、米国での研究開発を体験して欲しいという古屋さんの思いには、日本ではつかみ得ないグローバルな感覚もつかんで欲しいという気持ちもふくまれていたんですね。


ダナファーバー癌研究所への派遣は、初めから長期を予定されていたのですか?


◇写真と医薬の違い


【古屋さん】派遣期間は、わずか1年3ヶ月限定でした。しかしながら、いまだに日本に帰っていないわけですし、当時も自分自身「新たな人生の始まり」をどこかで予感してたのかも知れません。


渡米前の2週間は連日送別会でしたが、何度も、「もう帰ってこないような気がする」と言われました。


その当時、私は、癌ミトコンドリアをターゲットにした選択的な新規制癌剤の研究を、1年間必死でして、目処をつけたら帰国して、推進チーム902の仲間と一緒に、富士フイルムから分社化した新しい「医薬会社」を日本で創設したいと思っていました。


しかし、周りの皆には、見果てぬ世界へと夢を広げていた私が、見えたのかも知れません。


【清宮】分社化した「医薬会社」を、と考えておられたのですか?


【古屋さん】明確なビジョンがあったわけではないのですが、「医薬」事業創設は、「写真」で大成功した富士の企業体質やマネジメントのままではできないと思っていました。


課長研修に参加した際、多くの仲間から、新規事業としての医薬事業への過剰の期待があることを感じ、「僕は分社化して独立するから、僕に期待することなく、それぞれ、自分の生きる道は自分で創って欲しい」と、偉そうなスピーチをした事を覚えています。


【清宮】厳しい意見ですが、古屋さんなりの決意表明と、次の世代を担うマネジメント(同期の課長)へのメッセージだったのでしょう。


ところで、写真で大成功した企業体質やマネジメントのままでは「医薬」はできないと思われた具体的な理由は何なのでしょう?


【古屋さん】一言で言えば、「待てない」ということだと思います。研究開始から認可まで10年以上もかかる医薬への投資は、短期サイクルの新商品リリースを駆使した詳細なマーケティング戦略をしてきた企業文化では、理解し難かったし、受け入れがたかったと思います。


【清宮】始まりの段階でビジネスの本質の違いを感じられていたわけですね。その本質の違いに気付いておられたということは、その後の仕事の進展によい影響を与えたのではないかと思います。


渡米後の仕事はいかがでしたか?


【古屋さん】1990年10月、憧れの米国ボストン、ローガン空港に降り立った時の興奮は忘れられません。


限られた駐在期間でしたから、「一日たりとも無駄にはできない」「勇気を持って、前向きに全てのことに挑戦していく」という意気込みでスタートしました。


それだけに、たくさん「失敗」もしましたし、苦労もしましたが、毎日が楽しくてたまらない、というアメリカ生活でした。


【清宮】今の古屋さんを見ていると、当時も前向きに果敢に挑戦していたであろうことは容易に想像できます。


【古屋さん】「勇気ある失敗は、栄光への第一歩だ」と、今でも自分を鼓舞しながら、今でも時に失敗をしながらチャレンジをし続けています。


誰でも失敗は怖いですが、大抵の失敗は振り返ってみると良い経験になっています。


【清宮】私は好きなことをして夢を追い続けようと決心するまで3年かかりました。失敗を恐れずに夢を追い続けるということは実に単純なことですが、実はなかなかできることではないですよね。


DFCIでの研究はいかがでしたか?バイオロジーという新しい領域への挑戦でもあったわけですが、順調に進んだのでしょうか?


◇アメリカで実験。日本とファックス通信


【古屋さん】DFCIでは、L.B. Chen教授の研究室で、持ち込んだ数百個の化合物に加え、次々に日本の仲間から送られてくる新規DLC(Delocalized Lipophilic Cation)化合物の、ビトロとビボの薬効スクリーニングならびにメカニズム研究に没頭しました。


常に何十ものセルラインをキープし(これがなかなか大変で、休みがなかなか取れないのです)、自分の手で試験したヌードマウスだけでも、3000匹に上りました。手を合わせながら、実験をしていました。


蛍光顕微鏡の下で繰り広げられる細胞の神秘に魅了され、時間を忘れて何百枚も写真を撮りました。新しい環境、新しい研究に興奮しつつ、それこそ、朝から夜中まで働きました。


日米は、14時間の時差があるため、夜になると日本とのファックス通信(嘘みたいですが、その当時は、メールがなかったのです)が始まり、夜中にファックスの感熱ロールペーパーを交換したり、朝方まで仕事したこともよくありました。


【清宮】昼間はDFCIでの薬効や作用機序の研究、夜は日本との交信という、大変な日々を送られたように思いますが、その努力は成果に結びついて行ったのでしょうね。


【古屋さん】信頼する日本の仲間のバックアップもあり、DFCIでの共同研究者(先に述べた中国人の研究者も含めて)の協力もあり、研究は予想以上に順調に進みました。


【清宮】日本の仲間のバックアップというのは具体的にはどんなものだったのでしょうか?


【古屋さん】ハーバードの研究所では基本的にはバイオロジーとファーマコロジーを中心としていましたから、最適化のための誘導体合成、DMPK(薬物代謝動態)も日本からバックアップしてもらいました。


また、同じ志をもつ仲間がいるという精神的なバックアップは強力でした。


【清宮】日米でのチームワークでの研究だったのですね。精神的なバックアップというのも、アメリカで、孤軍奮闘の古屋さんとしては、ありがたかったわけですね。


【古屋さん】時々送られてくる皆の写真も、励みとなりました。お花見や、忘年会に参加できなかったのが、とても淋しかったのを覚えています。


これでも、日本人ですからね。それに、アメリカでの仲間もいましたから、やはりチームワークで仕事を進めていったという感覚でした。


この日米のチームワークがなかったら、当時の研究は進まなかったと思います。


まあ、そのようにして、約1000個の誘導体合成を伴った最適化研究により、前臨床候補化合物の創生に辿り着きました。癌選択性が高く、水溶性の化合物“MKT-077”の誕生です。


【参考文献】
MKT-077, a novel rhodacyanine dye in clinical trials, exhibits anticarcinoma activity in preclinical studies based on selective mitochondrial accumulation. K Koya et al: Cancer Res. 1996 Feb 1; 56(3): 538-43.)。

http://cancerres.aacrjournals.org/cgi/content/abstract/56/3/538


【清宮】前臨床の候補の創生に到達したと言うのは、大変な進歩ですね。


それで、初期の目的であった化合物ライブラリーの医薬へのポテンシャルを証明したことになったのではなったのでしょうか?


◇前臨床から臨床へ


【古屋さん】今考えると、変な話なのですが、プロジェクト開始した時点では、「医薬の可能性の模索」ということで、それを「開発」するという大事な部分はほとんど念頭にありませんでした。


前臨床候補品であるMKT-077の創生は、そういう意味では、当初の目的を達成したことにはなるのですが、その時点では、「臨床開発」という新たな目標が見えても来ていました。


特にFirst-in-Class(全く新規の薬剤)の場合、患者さんでのPoC (Proof of Concept)を取れて初めてその価値が証明されるものです。


是非、臨床試験に持っていきPoCまでこの手で掴みたいとの思いを強くしていました。


【清宮】基礎から臨床へ。それは当然の心境の変化ということは分かります。


ただ、医薬品の研究と、その開発というのは、全く毛色の違うものです。そこには壁があったかと思いますが、自分の創りだした薬の卵を、臨床でのPoCを取って、なんとしても自分の手で価値を証明したいと考えたのですね。


【古屋さん】全くそのとおりです。想いが通じたのか、L.B. Chen教授の強力なバックアップもあり、米国滞在期間を延長してもらい、米国での前臨床試験という新たな挑戦に果敢に挑みました。


実を言いますと、臨床第1相試験に必要なIND申請の内容すら、そこから勉強を始めたような状況でした。


それからは、バックアップ化合物の研究開発と並行して、毎週ワシントンDCに飛び、元FDAレヴュアーのコンサルタントを質問攻めにしたり、前臨床試験を実施している製薬企業を訪問してそのノウハウを盗んだり、ハーバード医学部の医師達と話合ったりしながら、前臨床開発デザイン、フェーズ1デザイン、CMC、DMPK試験、GLP毒性試験等などを、CROを駆使して進めました。


【清宮】臨床経験の無い古屋さんが臨床試験を立ち上げるというのは、途方も無い無謀な行いにも思えますが、第1回目で古屋さんの “夢を実現する”能力を知ってしまっただけに、古屋さんならありかなという気がしてしまうのが不思議です。


【古屋さん】まあ、無謀と言えば、医薬研究自体もDFCIでの研究も、同じように無謀だと言えます。「ゼロから何かを創る」には、「不可能を可能にするような大きなジャンプや挑戦」が必要です。


それには、常識を超えた「意志」や「行動」が必要でした。書家であり詩人の「相田みつを」氏の言葉に、「ともかく具体的に動いてごらん、具体的に動けば、具体的な答えが出るから」というのがありますが、具体的に動くことしかなかったのです。


だから、とにかく、動きました。動いては、学び、学んでは、動く。


◇しあわせはいつも じぶんのこころが きめる


【清宮】「相田みつを」氏の本はよく読まれますか?


【古屋さん】アメリカに来てから知りました。私のオフィスにも色紙が飾ってあります。「しあわせはいつも じぶんのこころが きめる (みつを)」。


この詩に出会ったときは、まさしくこれだ!と思いました。私がずっと思っていたことでしたから。


脱線してしまいますが、高校の入学式の校長スピーチで聞いた、「傘屋と下駄屋」の話がとても印象深く、その後の私のポジティブシンキングをさらに高めてくれたので、ちょっと紹介します。


ある母親が、いつも泣いてばかり暮らしていたので、理由を聞くと、「晴れの日には、傘屋の息子が傘が売れなくてかわいそうだ、雨に日には、下駄屋の息子の下駄が売れなくて悲しい」と答えたそうです。


もうお分かりですよね。その母親は、毎日笑って暮らせるようになったのです。「晴れの日には、下駄屋の息子の下駄が売れ、雨に日には傘屋の息子の傘が売れる」わけですから。


【清宮】ピンチの時こそチャンスだとよく言われますが、発想を変えることで目の前の状況が全く違ったものに見えるということよくあることだと思います。


古屋さんは、「基礎の俺にはIND申請は無理だ」と考えるのではなく、「やっと臨床に進むことができる。ラッキー」と考えたわけですね。


IND申請は分からないことだらけだったと思いますが、どのようにして資料をそろえていったのでしょうか?


【古屋さん】例えば、凍結乾燥のガラス瓶の質について分からなかったら、本やコンピューターで調査してその情報で自分なりの判断をするのが普通ですが、私は製薬企業の専門家を訪ねて、ガラスの質について質問を浴びせました。


ガラスの質以外の多くのことも同時に学べました。GLP毒性試験が知りたければ、複数のCROにもすぐに訪ねました。見て、感じて、覚えました。


インスペクションに行って、理解できないSOPを、その場で、懸命に読んで詰問するようなことも多々ありました。コンサルタントと医師との意見が大きく異なり、白黒はっきりさせようと、二人の前で、FDAに電話をかけたこともありました。


週末にCROの社長の家に電話して文句を言ったり、メイン州のスキー場から、GLP毒性試験の犬の死亡について電話をかけて、雪の中で立ったまま、長時間電話会議したこともありました。


そうして、3000ページのINDが完成し、FDAに提出、無事ハーバード大医学部での臨床1相をスタートしました。今から考えると、「めくら蛇に怖じず」だったのだと思います。ただ夢中でやり遂げた。その一言です。


【清宮】そんな過酷な交渉や話し合いを経てついにFDAへのIND申請をやり遂げられたわけですね。


【古屋さん】米国の多くのCROの方々の助けや、ヒヤヒヤしながらも放し飼いにしてくれた(笑)日本の同僚や上司のバックアップがなければ、到底できないことだったと思います。


IND申請資料提出の夜に、お祝いで飲んだ赤ワインの芳醇な味を今でも思い出します。今でも時々、同じワインを飲みながら、「初心に戻る」時間を持ちます。


志を持って頑張れば、「成せばなる」を、このときカラダで覚えたような気がします。

【清宮】DFCIでの研究を目的に渡米したのが、いつの間にか、ハーバード医学部での臨床開発にまで達したわけですね。


【古屋さん】ここまで一気に話してしまいましたが、まだ、富士フイルムでの最初の新薬の卵のIND申請にまでしか辿り着いてませんね。


話し始めると止まらなくなってしまって。しかしながら、この渡米後数年間は、私にとっては忘れられないものですし、今の自分の基礎を作ってくれたと思います。


こうして、自分でも気がつかないうちに、15年のアメリカ遍歴は、いつしか始まっていたのです。


【清宮】基礎から臨床への変換期がどれだけ密度の濃い時間であったかは、製薬を知っている人にはよく分かると思います。


基礎と臨床の両方を経験されたことはその後の活動にとても有利だったのではないでしょうか?


【古屋さん】有機合成から、医薬最適化合成、薬効薬理、医薬前臨床開発(DMPK、毒性評価、GMP−CMC、申請等)、そして、臨床開発。新しい分野を自分で体験しながら次々に学んで行ったことは、その後、医薬R&D全体を考える上で、かけがえの無い経験になりました。


さらにその後、幸運なことに、理想の「医薬研究会社会社」の設立のヒントとなる貴重な体験をする機会にも恵まれました。


【清宮】いよいよ、薬品開発全般が見渡せるビジネス分野に進出されたのでしょうか?


◇理想とする医薬研究開発会社の設立に向けて


【古屋さん】そうです。まずは、MKT-077の導出により、「医薬ビジネスへの可能性を示す」という新たな目標を立てました。


小さなバイオテック企業からグローバルな製薬大企業まで訪ねて導出によるビジネスの可能性を模索しました。


そして遂に、臨床第1相試験の途中という開発初期段階で、Sandoz社(現在のNovartis社)にライセンスが決まり、同時に私自身も、Sandoz社の臨床開発チームに参画しました。


【清宮】Sandoz社とのライセンス提携はどんな内容でしたか?


【古屋さん】具体的なライセンス内容については、控えさせていただたいのですが、その当時にしては、イニシャルフィー、マイルストーンフィー、そしてロイヤルティも含め、破格のディールだったと思います。


【清宮】基礎も初期臨床も知り尽くした古屋さんがいたからこそ説得力のある話し合いができて、破格のディールを勝ち得ることができたのだと思います。


【古屋さん】Sandoz社で、幸運なことに、グローバルな製薬会社の本格的医薬開発を学ぶことになりますが、同時に、大企業特有の官僚的医薬研究開発に疑問を持つ機会も得ることができました。


それが、「自分の目指す医薬研究開発会社を創りたい」という気持ちの原点になっています。


Synta社が掲げる3つのコアバリュー、”Quality of science (高度なサイエンス)”、“Speed of execution(迅速な遂行)”、”Passion for improving the lives of patients (患者さんへの思い)”には、そういう理想の製薬企業への思いが込められています(http://www.syntapharma.com)。


理想とする医薬研究開発会社を創り、患者さんを助ける新薬を創る、という新たな目標に向かっての次なるチャレンジが始まろうとしていました。


〜〜〜〜〜〜第2部終了〜〜〜〜〜〜


渡米後、グローバルな視野を獲得しつつ、基礎研究から臨床開発への脱皮を遂げた古屋さん。


基礎研究から臨床研究への転換期に遭遇したIND申請は、楽しくも過酷な作業であったことが伺われます。


その後、臨床試験中の化合物のライセンス導出というビジネスを経験し、Synta社の企業理念の根幹を成す価値感の原点見出すことになります。


次回は、「患者さんを助ける新薬を創る」という社会的な使命に向けての古屋さんの活動をお伝えします。


お楽しみに!


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コメント

1回目の時も感想を書かせていただいた近藤です。無料会員の私にもこんなに手間のかかった記事を読ませていただいて、感謝の至りです。

古屋さんの人格には多くの魅力が有り、多くを学ばされます。
何かの「未知」に出くわす度に、正面から正攻法で体当たりする。何度でも、どんな状況でも、ひたすらそれを繰り返し、貫く。
「医薬の可能性の模索」しか考えず「開発」が念頭にないまま飛び込んで、結果的に「無欲の勝利」を得る。
良き研究仲間として日々を過ごすだけで、中国人の日本に対する偏見を解除してしまう・・・

「ああ、こんなピュアなやり方で良かったんだ」と、安心するやら勇気が湧くやら、とても嬉しくなります。

いつものニュースレターとは異なる、人間の魅力に溢れた日曜特別号が、ますます楽しみになりました。清宮さん、お仕事頑張って下さい!

近藤 朗さんへ

古屋です。メッセージ、本当にありがとうございます。メッセージを読ませていただき、真摯なご意見やご感想をいただけることは、こんなにも嬉しいことだと知りました。正直言いまして、こうしたインタヴューで、私の思いがきちんと伝えられるかどうかは、一つの新しいチャレンジでしたが、こうしたメッセージをいただけただけでも、思い切って、こうしたインタヴューをした甲斐があったと、嬉しく思っています。本当に、ありがとうございました。これからも、楽しんで読んでください。

「遊びをせんとや生まれけむ」――インタビューを読むうちに、そんな言葉が頭をかすめました。まるで幼子が遊ぶように、夢中で研究に没頭された古屋氏の姿が浮かび上がりました。少年のような純真な眼をお持ちゆえに、新しい時代の息吹を感じられたのでしょう。ストレートな行動力にも勇気づけられました。インタビュー構成もとても分かり易く、お二人のハーモニーも絶妙です。メールのみでこれほど相手の人柄を引き出せるとは――。「共感の輪を作ることが目的」という清宮氏の意図が、手間暇かかった記事からひしひしと伝わってきます。骨の折れる作業でしょうが、次回も楽しみにしています。

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