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2006年03月19日

バイオインタビュー 古屋圭三さん、3回目

金曜日のメルマガでお伝えしましたように、日曜特別号(バイオインタビュー)として、Synta社の古屋さんのインタビューの第3回目をお送りします。

バイオインタビューでは、バイオベンチャーを初めとしたライフサイエンス分野で活躍している日本人をインタビューし、彼等がどう思い、どう行動し、どういう結果を生み出し、これからどういう成果を生み出そうとしているのかについて綴っていきたいと思います。


このインタビューの主眼は、専門的な技術の解説ではなく、インタビューをうける人の「人間性」です。難しい専門用語も出てきますが、分からない言葉はとばして読んでいってください。それが分からなくても読み進められるようになっています。


では、古屋氏のインタビューの第3回目の始まりです。


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目次

 ・前回のおさらい

 ・アメリカで学んだ日本の文化。アメリカに根付かせた日本の文化

 ・都合の悪いことは起こらないと考える日本人

 ・メガファーマとバイオテックの住み分け

 ・富士が医薬ビジネスに本格参入

 ・思考と行動が直結

 ・富士が医薬ビジネスから撤退。人生の岐路にたつ古屋さん

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◇前回のおさらい


【清宮】 シリーズ2回目では、渡米後、グローバルな視野を獲得しつつ、基礎研究から臨床開発への脱皮を遂げられ、その後、臨床試験中の化合物のライセンス導出というビジネスを経験し、Synta社の企業理念の根幹を成す価値感の原点見出すという古屋さんのアメリカでの初期の活躍ぶりを聞かせて頂きました。


アメリカでの新しい新薬研究開発へのチャレンジのお話は、古屋さんの情熱が伝わってきて、多くの読者からの、さらなる反響がありました。


いよいよ、今回は、「理想とする医薬研究開発会社を創り、患者さんを助ける新薬を創る」という社会的な使命に向けての古屋さんの次の展開をお伺いできるものと楽しみにしています。


【古屋さん】 これまでの2回のインタヴューに対して、身に余る沢山の前向きなコメントやメッセージをいただき、大変嬉しく思っています。


私の好きなミスターチルドレンの歌に、「息を切らしてさ、駆け抜けた道を、振り返りはしないのさ」 という詩があります。


「もっと大きなはずの自分を探す終わりなき旅」において、私もこれまで、振り返ることなく、ずっと駆け抜けてきたような気がします。


今回、こういう貴重な機会を頂き、自分のこれまでを、清宮さんの質問によって振り返ることは、私にとっても大変意味があると改めて認識しています。


さらには、多くの読者の皆さんからのメッセージによって、大いに励まされていることに対してもお礼を言いたいと思います。


【清宮】 私も、読者の方からのコメントはとても嬉しく思っています。ただ、2回目へのコメントがちょっとすくないのが残念ですが。これは私の力不足です。


2回目のインタビューでは秘密はありませんでしたが、1回目のインタヴューのコメントの最後で「100%成功する秘訣」という問いかけがありました。


こういう伏線への期待から1回目インタビューへの反応が大きかったのかもしれません。


私自身も、その回答、大変楽しみにしています。


【古屋さん】 コメントにも書きましたが、私の物語は、私だけのものですが、私の生き様から、何かを感じて、勇気を持って何かを始めようと思って下さる方が一人でもおられれば、このインタヴューは意味あるものになると思っています。


「夢は逃げない、逃げるのは自分から」、このインタヴューは私自身への、そういうメッセージでもあります。


また、「100%成功する秘訣」は、これまでの2回の私のインタヴューからもうお気付きの方も大勢おられると思いますが、最終回の種明かしまで、楽しみにして読んでもらえればと思っています。


◇アメリカで学んだ日本の文化。アメリカに根付かせた日本の文化


【清宮】 1回目の伏線があるので、読者の方は何が何でも古屋さんの物語を最後まで読むしかないですね。


ただ、伏線のみならず、今回のインタビューでは仕事以外のこともお話いただいており、「外交官」が夢だったことや、草の根的「国際交流や国際親善」等の古屋さんの真っ直ぐさが分かるエピソードなどはこのインタビューではとても楽しめる部分になっていいます。


アメリカに行って、日本の文化を再確認するようなこともありましたか?


【古屋さん】 世界のことを知らないだけでなく、日本のことをよく学んでこなかったことを、アメリカに来て、たびたび痛感しました。


日本のことについて、たとえば、神道について聞かれても、歌舞伎について聞かれても、ちゃんと理解していないし、説明できない。


そして、日本の良さについて再認識することも数多くありました。「空手」を習い始めたのも、そういう背景があってのことでした。


松涛館の道場の門をたたき、いい先生に巡り合うことができ、黒帯を取ることもできました。空手の修行を通じて、身をもって、その精神性を学び、道場の多くの外国人(私が外国人なのですが)の子供たちにもそれを伝える機会を持ちました。


「人格完成に努むること」「誠の道を守ること」というようなことを、日本で言う「躾」をきちんと受けていない子供に教えました。


一時もじっとしていることができなかった子供が、空手を学ぶうちに、きちんと長い時間座ることができるようになり、集中して練習に取り組めるようになっていくのは、面白かったですね。


【清宮】 アメリカで始められて、黒帯ですか?実は私も大学院の時に極真空手をしていました。


流派は違いますが、空手の練習の厳しさはよく分かります。どれだけ真剣に稽古されたかは手に取るように分かります。


「相田みつを」氏の「ともかく具体的に動いてごらん、具体的に動けば、具体的な答えが出るから」をここでも実践されたわけですね(2回目インタビュー参照。)。


【古屋さん】 空手で繋がっていたとは、奇遇ですね。ただし、フルコンタクトの極真との「組み手」は遠慮しておきます(笑)。


空手はアメリカに来て日本の文化の良さを再確認した例ですが、私がアメリカに持ち込んだ日本(中国)の文化もあります。それは反省という概念です。


現在、Synta社では、皆、良く、”Hansei(反省)”という言葉を使います。


ご存知のように、アメリカは弱肉強食の世界です。自由でもありますが、厳しい社会です。この戦いの中では、「自分の非を認める」ことではなく、論理的な「正当化」の能力の高めることが必要となります。


他人や社会に対してだけでなく、その能力は、いつしか自己にも向けられ、「反省」という力が著しく乏しくなっています。


「ごめんなさい」と言えば許されるような日本のしきたりも問題ですが、少なくとも、日本には「反省」という概念がまだ活きています。


実際、英語には「反省」に対応する単語がありません。それで、敢えて、“Hansei”という日本語を使いました。


始めは、かなり抵抗があったようですが、今では、Synta社のカルチャーのひとつになりました。Synta社は、“反省が必要だね”とアメリカ人が言う米国ベンチャー製薬企業です。

【清宮】 反省という概念はアメリカには無いわけですね。それははじめて知りました。ということは、企業カルチャーの中に「反省」がある米国ベンチャーはおそらくSynta社だけですね。


話は変わりますが、2005年12月23日のプレスリリースでSynta社の2006年のフォーカス領域が解説されています。


プレスリリースの発表によると、臨床開発では、2006年はクローン病やリウマチを対象にしたIL-12/IL-23阻害剤・STA-5326の開発を何よりも優先するということですね。


残念ながら、このSTA-5326は乾癬を対象にした後期第2相試験で有効性を示すことができませんでした。


個人的には、クローン病やリウマチと同じ自己免疫疾患の一つである乾癬を対象にした後期第2相試験で有効性を示せなかったSTA-5326でクローン病やリウマチでの有効性を示すことはとてもチャレンジングな試みと考えています。


ただ、この辺の決断にもHanseiという概念が取り入れられていたとしたらそれはとても興味深いです。STA-5326の開発については後ほど詳しく教えてください。


【古屋さん】  STA-5326の開発戦略は様々な要素が絡んでいますので一概には言えませんが、戦略設定にあたって確かにHanseiという概念は取り入れられています。それは後ほど説明します。


【清宮】 楽しみにしています。このインタビューの表の目的は古屋さんの人間性を知ることですが、裏の目的は実はSTA-5326の今後を占うことです。


個人的には、先を読むのがとても難しいバイオビジネスにおいてSTA-5326の開発戦略がいかにして設定されたのかにとても関心があります。


◇都合の悪いことは起こらないと考える日本人


【古屋さん】 社外秘もあるので、今後STA-5326の開発についてどこまで話せるかははっきり言えませんが、出来る限り紹介したいと思います。


清宮さんが指摘したように、「創薬」は、先が読めない本当に難しいビジネスです。


必要なクリティカルマスの確保やリストラクチャリングによる効率化などの理由で、今もまだ、統合や再編が進んでいて、ますます、メガファーマとしてのサバイバル合戦が続いています。


今や、ひとつの薬を作り出すのに、平均$1billion (1000億円以上)の投資が必要です。したがって、そのR&D(研究開発)の効率化へどう取り組むかは、製薬企業にとって死活問題です。


【清宮】 これは製薬業界全体の課題でもありますね。特に、日本製薬企業のグローバル化が不可欠な理由もそこにあるような気がします。


【古屋さん】 今や、日本の市場は世界マーケットの10%近くまで落ち込んでいます。


以前のように、日本の市場が世界マーケットの30%もあれば、日本を中心にやっていくことも何とかできたのかもしれませんが、もう、グローバル化なしでは生きていけない時代であることは確実です。投資回収がまずできません。


【清宮】 つまり日本という市場が縮小した今となっては過去の成功にしがみついていることは出来なくなっているわけですね。


お尻に火がついた日本の製薬企業のグローバル化について古屋さんはどんな印象を持っていますか?


【古屋さん】 この業界に関わらず、日本は、非常に遅れています。そして、追いつこうとしている姿勢も伝わってきます。


ただ、グローバル企業になりたがってはいますが、その体質も、判断も、行動も、まだまだ、「日本の薬の会社」であるところがほとんどだと思います。


日本製薬企業の批判をするつもりはないのですが、私の日本に対する思いであり、危惧であり、警鐘だと思って、前向きに捉えてくださると助かります。


これは日本人の特性なのかもしれませんが、これまでの歴史を見ても、プロアクティブ(前もって予測して事前に)に判断し行動することが下手だと思います。


自分に都合の悪いことは、起こらないで欲しいというキモチが、起こらないだろう、きっと起こらない、、、となってしまう。


北朝鮮も攻めてこないし、東京大地震も起きない。そして、それが起こって、ショックを受ける。


オイルショックのとき、世界でショックと言ったのは、日本だけだったと何かに書いてあったのを思い出します。


ただし、その予期せぬ(?)ショックに対しての、りアクティブな対処では、類稀なる団結力を駆使して、なんとか乗り越えていく。そういうことを繰り返してきたようなところがあります。


しかし、リーダーが育っていない。しかも、一致団結もできなくなってきている日本は、リアクティブにさえ動けず、その優位性を保てなくなっていくと思います。


「茹で蛙」の話は、皆が知っているものの、その「茹で蛙」本人が、なんとかなるだろうと、「茹で蛙」であることを容認してしまう。


うちの会社は、トップが駄目だから、、、なかなか古い体質で、、、部長は何にも分かってないから、、と「茹で蛙」を正当化してしまう。


中国やインドなどの新興勢力が大きく躍進していく次世代のグローバル化がさらに加速する今からの世の中では、「茹で蛙」は、茹だって死ぬしかありません。


ヴィジョンの明確化、強力なリーダーシップ、迅速な判断と行動が、不可欠です。


日本の製薬企業を訪ねて、「うちはデシジョン(決断)が早すぎて、、、」という愚痴は、今までかつて聞いたことがありません。


グローバル企業になることが不可欠なら、意識の大改革が不可欠であり、行動の大改革が不可欠です。今日(きょう)それをしないことは、死を意味します。


【清宮】 つかまってしまいましたが、ライブドアの堀江社長などは「時間を金で買う」ということを公言して憚りませんでした。


迅速に決定して時間や技術を先取りするぐらいの意識が日本の製薬会社にも必要かもしれません。


Merck社やAstraZeneca社などが小さなバイオベンチャーと次々に提携しているのはある意味時間やアイデアをお金で買っているわけで、そういう提携を日本の製薬会社もどんどんしていったら良いと思っています。


◇メガファーマとバイオテックの住み分け


【古屋さん】 メガファーマはバイオベンチャーによる提携で効率化を目指すと同時に、自社のR&Dも積極的に効率化しています。


先ほど、ひとつの薬を作り出すのに、平均$1billion (1000億円)の投資が必要で、そのR&D(研究開発)の効率化が重要だと言う話をしましたが、メガファーマはこの大金を効率よく使う方法を模索し始めています。

(小分子)創薬の難しいところは、「Attrition(目減り)」です。


とにかく、何十万個という化合物から、新規なデジーズターゲットに対するヒット化合物を見出し、何千個という化合物を合成して前臨床候補を作り出しても、臨床開発に生き残ってNDAに到達できるのは、インディケーションにも依るのですが、10~20%程度です。


これまで、前臨床までの段階でいかによい候補を選定して「Attrition」を下げるかに努力が払われてきましたが、最近では、「Attrition」はもう現実として認めよう。なるべく多くの化合物を臨床に上げて、臨床初期でPoC(Proof of Concept)を取れるかどうかを最低限の投資で判断しよう。という流れに変わってきました。


ラーニングフェーズ(臨床試験でPoCを取るまで)とコンファーメーションフェーズ(その後の認可のための開発)とに2分して、効率化を図ろうという流れです。


ラーニングフェーズでは、最低限の投資で、なるべく多くの候補を人間で試験する。


コンファーメーションフェーズでは、リスクを最小限にして大量投資で確実に認可を取る。というような2フェーズでのR&Dです。


第二フェーズは、多量の投資が必要で、バイオテックには不向きです。さらにコマーシャライズするのも、大手の得意とするところです。


一方、第一フェーズは、寧ろ、新規性や機動性があり、フレキシブルなバイオテックの方が得意であり、コストも、大企業と比べると格段に安いと言えます。


例えば、前臨床試験の平均期間は、数年前まで2年程度でした。その当時、Synta社の平均前臨床期間は、7ヶ月程度でした。今や、大企業でも1年以内を目指しています。


つまり、ディスカバリーから人でのデータによる早期判断までが、バイオテックの役割であり、それを薬として認可を取り、価値を最大限に引き出すのがメガファーマ、という住み分けが可能だと思われます。


◇富士が医薬ビジネスに本格参入


【清宮】 その点、日本の製薬企業は機動性があるバイオテックをうまく生かしきれてないように思います。


事実、日本の企業が海外のバイオテックと提携したというニュースは殆どありません。


古屋さんは、MKT-077導出によって、化合物がバイオテックからメガファーマの手に渡っていく過程を経験されているわけですが、このことは富士フィルムに対してどのような影響を及ぼしましたか?


【古屋さん】 MKT-077導出によるライセンス収入を得て、そのライブラリーの価値ばかりか、医薬ビジネスの潜在的な可能性を認識した富士フイルムは、医薬事業に参入しようと考えました。


MKT-077のAPI (有効成分の原末)供給のためのGMP製造工場を作り、神奈川の研究所内に医薬チームを作り、そして、L.B. Chen教授(Harvard)と利根川教授(MIT)と共に、ボストンから車で30分のレキシントンという街に、「FIP (Fuji Immuno-Pharmaceutical)社」を創設します。


ボスニア-ヘルツェゴビナ内戦が始まった1992年のことです。ついに、日米での共同医薬研究開発が始まりました。


私は、このFIP社の中にオフィスを構え、別の組織(Fuji USA, Pharmaceutical Representative Office)を独立に持ち、導出したMKT-077の臨床開発、米国での医薬事業の推進も、同時に進めていました。


このFIP社の創設や運営に接することができ、研究だけでなく、アメリカバイオテックの起業、資金、運営、、、というようなことを学ぶ機会を得ることができました。


このことは、その後の米国ベンチャー製薬企業創生への道を考える上で、大変役に立ちました。


【清宮】 富士フィルムが設立したFIP社では具体的にどのような研究活動をされていたのでしょうか?


【古屋さん】 FIP社は、「免疫」に研究フォーカスを置き、米国のバイオロジーと富士のケミストリーとのシナジーによる創薬を目指しました。富士からも新たな研究者が駐在員として参画しました。


Chen教授の牽引力は、このベンチャーで、遺憾なく発揮され、凄まじい勢いで医薬研究が進みました。


FIP社には、MITやハーバード博士号等を持った優秀な研究者たち集まってきました。そして、その意思決定や行動のスピードはとにかく速かった。


日本では経験したことのないスピードで、まるでジェトコースターに乗っているような毎日でした。


◇思考と行動が直結


【清宮】 優秀な人がベンチャーに集まるのって本当かなと思っていましたが、本当なんですね。


ところで、スピーディな意思決定や迅速な遂行、というのは、大企業の最も不得意とする部分でもありますが、具体的には、どのような感じなのでしょうか。

【古屋さん】 例えば、薬効試験用の動物室のスペースが足りないとなれば、3日の突貫工事で作ってしまう。


新しいHIV(エイズ)薬 プロジェクトを決めたら、あっと言う間に、P3施設を作り、データを生み出す。


最新のバイオロジー技術が必要となったら、その専門家をすぐに雇って、すぐにその技術を使う。ひとつのペーパーが、ひとつの実験データーが、日々、研究内容を進歩させていく機動性がありました。


【清宮】 思考と行動が直結しているわけですね。リーダーがやろうと思えば物事はすぐに進展するということが今ビリビリ伝わってきました。


しかも古屋さんが今教えてもらった状況は1990年代前半のことですから、今はもっと意思決定は加速しているんでしょうね。


昨日発表されたNatureの最新技術が今日は自分のラボでも取り入れられているみたいなこともあるわけですね。


【古屋さん】 いえ、論文が発表された時にはもう遅いと言えます。情報のネットワークが重要です。MITやHarvardの様な研究室で、毎日生まれるエキサイティングな発見を、いかに早くキャッチし、特許化も考慮して、その発見を自分たちの研究に取り入れ、新しいプロジェクトにして、新薬の卵につなげていくかが勝負です。


NatureやScienceで発表される時には、既に誰かの手の中にあると考えた方がいいでしょう。


「あのイオンチャンネルのクローニングのデータが、次のNatureに出るみたいだよ」というような会話は普通に行われています。


そのため、この4〜5年で多くの大手製薬企業がボストンに研究所を移しました。


ボストンのコミュニティに物理的に参加して、その情報のネットワークに入っていることは重要なのです。

【清宮】 なるほど。情報ネットワークですね。ネットが発達したとはいえ、当然のことながら直接のコンタクトで得られる生の情報は依然として重要なんですね。


世界と対等に渡り合おうと思ったら、活発な科学コミュニティーと生のやり取りが出来るコネクションは必要ですね。


日本の富士フィルムは、FIP社を通じて生の情報が飛び交う米国のバイオテックのすさまじいスピードを目の当たりにしたわけですが、富士はその波にうまくのることはできたのでしょうか?


◇富士が医薬ビジネスから撤退。人生の岐路にたつ古屋さん


【古屋さん】 日本側の企業体質が、医薬事業とはあまりにもかけ離れており、結論からいうと富士はそのスピードや文化の違いについていけませんでした。


私自身は、「たら、れば」論は、大嫌いですから、そういうことはこれまで考えたこともないのですが、あの当時、医薬事業への本格的参画の英断が下され、実行されていれば、富士はサンド社との共同開発や実験的ベンチャーFIP社という大きな成果をテコに、その後、それらの研究開発を医薬事業へと花開かせて行けたかもしれません。


残念ながら、富士は、FIP社を5年で閉じ、医薬からの完全撤退を決断します。


数人で始めた医薬への夢は、日米で数百人へ規模へと広がりを見せ、日本では社内で既にGMP工場も完成させていました。


しかし、医薬事業打ち切りの突然のデシジョンがあり、直ちに、帰国命令が出されました。


【清宮】 医薬事業の始まりの時点で「写真で大成功した企業体質やマネジメントが医薬には通用しない」と感じておられた古屋さんにしてみれば、この決断は「やっぱり」という感じだったのでしょうか?


【古屋さん】 そうですね、ショックというよりも、富士らしいデシジョンであり、ひとつのオプションであったと思いました。


そういう意味からは、残念ではありましたが、予想できた結果だったとも言えます。


医薬事業を成功させるという覚悟や意志がないのであれば、生半可なキモチで、やるべきではなかったと思います。


私としては、富士にしかできない医薬事業の展開戦略というのがあったように思います。


【清宮】 どんな戦略ですか?


【古屋さん】 富士は、化学のみならず、非常に多岐に渡るサイエンス(エレクトロニクス、バイオロジー、アナリティカル等々)をシナジスティックに複合することが可能である稀な会社です。


先にお話した「課長研修」の席で、私自身は、分社化して「医薬」を花開かせるが、富士としては、サイエンティフィックシナジーによる新しい「モノづくり」を目指すべきだと、主張しました。


医薬医療においても、多くの夢のような商品が、富士独自の技術集積により生み出せると考えていました。


ターゲットフォーミュレーションとか、新規の診断テクノロジーとかです。例えば、ナノパーティクル製剤が注目されていますが、富士では昔から、イメージングのための固体分散技術を確立していました。


【清宮】 異分野への参入は難しいものがあるのでしょうね。


結局、古屋さんが目指された分社化による「医薬」は完全撤退となったわけですが、その5年間の医薬R&Dの成果はメルク社などに受け継がれていったのでしょうか?


【古屋さん】 医薬事業からの完全撤退を決めるまでの5年間で、FIP社は、多くの研究成果を残しました。


それらは、Lexigen社(現メルク社)と塩野義(SBR-Shionogi BioResearch社)に受け継がれていくことになります。


その後、Lexigen社は、EMD Lexigen社(http://www.emdlexigen.com)として、SBR社は、Synta社として、生まれ変わっていくことになります。


新薬を待ち望む多くの患者さんを助けうる可能性を秘めた5年間の研究成果は今でもそれらの会社に受け継がれています。


【清宮】 研究成果が次の会社に引き継がれていく一方、帰国命令に対して古屋さんはどんな回答をしたのでしょうか?


【古屋さん】 帰国命令は私のひとつの大きな岐路でした。葛藤はありましたが、結局、「アメリカでの創薬」を続けようと決めました。


まず、「胸を張って、運命を受け入れなさい」と自分に言い聞かせました。これは失敗でも何でもない。人事は尽くした結果であり、それを胸を張って受け入れようと。


【清宮】 つまり、富士は医薬事業を撤退したけど、これまでの成果とその成果で得た自信は自分の中にちゃんと残ったわけですよね。


【古屋さん】 これまでの5年間で得た成果に誇りをもっていましたし、何よりもここで終わらせたくなかったし、終わらせたら一生後悔すると思いました。


そうして自分の勇気を奮い立たせました。


「勇気とは勝つことではなく逃げないことである」。その時には、既に、“自分のサイエンスを「医薬」という形で、世の中の人々に役立てたい”という新たな思いがありました。


そこから逃げないことが、自分にとっての「勇気」でした。そして、そう決めたら、後は「信念を実行に移しなさい、迷うことは無い」と自分に言い聞かせました。


【清宮】 古屋さん、この言葉は心に響きます。特にこれまでの古屋さんの活動を知っているだけに心に残ります。


FIP社には富士からの派遣社員も多数いたと思うのですが、やはり古屋さんと同じように自分を信じてアメリカにとどまった方はいたのでしょうか?


【古屋さん】 FIP社には、富士フイルムから多くのサイエンティストが派遣されたのですが、その中で、私を含めて、5名の研究者が、富士の医薬からの完全撤退を期に、会社を辞職して、アメリカに残る決断をしました。


偉そうなことを言いましたが、仲間がいなかったら、私とて、そういう決断ができたか分かりません。


その後、5人皆が、次のSBR社の創設に関わることになります。このFIP社での出会いは、この5人のそれからの人生を大きく変えていくことになります。


【清宮】 先月、富士が再度、医薬ビジネスに着手したとの報道がありました。


インタビュー第3部の最後として、1つ聞かせてください。


医薬事業からの完全撤退から約10年後の再参入をどのような気持ちで受け止められていますか?


【古屋さん】 医薬事業を立ち上げから撤退までずっと、「今、なぜ富士に医薬か」というような報告書や提案を、とにかく沢山提出しました。


仕事へのエネルギーの大半をそういうトップへの説得に使っていたことを考えると、今回のニュースは複雑な思いで受け止めざるを得ません。


大好きだった富士を辞職する際に、私を信頼してくれていた上司が、「富士のケミストリーから出発して、新しい医薬の芽を創るために、新天地を求めるのは正しいことだと思う」と激励してくれたことを思い出します。


今や、社外の人となり、こうして、全く別の形で、医薬研究開発の夢を追い続けていますが、今でも、推進チーム902の仲間と一緒に新薬開発をしている気持ちです。

いつか、富士にも恩返しできる時が来るように感じています。


〜〜〜〜〜第3部おしまい〜〜〜

ある意味、FIPまでの古屋さんは、富士フィルムという庇護者の下で、言葉は悪いですが、温室栽培の野菜のように大事に育ってきました。古屋さんはそこで力を蓄えていったのでしょう。

しかし富士という庇護者をなくした古屋さん。今後はこれまでに蓄えた知恵と勇気で、アメリカという「自由」ではあるが、「弱肉強食」で「厳しい社会」を乗り切っていかねばならなくなりました。


すなわち、古屋さんの本当のアドベンチャーは、富士の帰国命令を断ったときから始まったといえるでしょう。


次回は、厳しくも自由なアメリカ社会での古屋さんの奮闘ぶりをお伝えします。

古屋さん以外の4人の仲間がその後どうなったのかもとても気になるところです。


お楽しみに!

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2006年03月13日

バイオインタビュー 古屋圭三さん、2回目

昨日のメルマガでお伝えしましたように、日曜特別号(バイオインタビュー)として、Synta社の古屋氏のインタビューの第2回目をお送りします。

バイオインタビューでは、バイオベンチャーを初めとしたライフサイエンス分野で活躍している日本人をインタビューし、彼等がどう思い、どう行動し、どういう結果を生み出し、これからどういう成果を生み出そうとしているのかについて綴っていきたいと思います。


このインタビューの主眼は、専門的な技術の解説ではなく、インタビューをうける人の「人間性」です。難しい専門用語も出てきますが、分からない言葉はとばして読んでいってください。それが分からなくても読み進められるようになっています。


では、古屋氏のインタビューの第2回目の始まりです。


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目次

 ・共感の輪

 ・古屋さんの子供の頃の夢

 ・世界から見た日本

 ・写真と医薬の違い

 ・アメリカで実験、日本とファックス通信

 ・前臨床から臨床へ

 ・しあわせはいつも じぶんのこころが きめる

 ・理想とする医薬研究開発会社の設立に向けて

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【清宮】本日は古屋さんインタヴューの2回目です。

1回目では、科学の神秘を追い求め、創造することが好きだった少年時代。


医薬分野におけるファインケミカルの可能性を早くから察知しつつもその扱いに困惑していた富士フィルム時代。


幸運な出会いを経て医薬の分野でのファインケミカルの可能性を見出し、ライブラリーの最適化にまい進した時代。


そして、Chen教授との出会いという幸運な出来事を経て、富士フィルムのファインケミカル事業から医薬の芽を育てるべく、ハーバード大学医学部での医薬研究のために渡米するまでのお話を伺いました。


大きな反響を呼んだ1回目に続き、本日お届けする2回目では、古屋さんの創造性がアメリカでどのように花開いていったかについてお話いただきたいと思います。よろしくお願いします。


【古屋さん】今回もどうぞよろしくお願いいたします。


前回は、私の個人的な少年時代の話や、私の生き方というような話までしまして、恥ずかしい思いもあったのですが、皆さんに、素直に読んでいただき、身に余る過分な扱いをしていただき、ほんとうにありがたく感じています。


◇共感の輪


【清宮】第1回目のインタビューへのコメントからも分かるように、読者の皆さんの多くが第1回目のインタビューで古屋さんから勇気をもらっていると思います。


仕事というのは、その成果自体も大事ですが、その成果が生まれた背景にあるその人の人間性や思いを伝えることで共感の輪がうまれます。


この共感の輪を作ることが「バイオインタビュー」の目的です。


古屋さんの背景を中心とした共感の輪から、何か新しい物が生まれてくることを期待しています。


さて、今回は、渡米からの話をお聞きしたいと思うのですが、その前に、古屋さんの子供の頃の夢は何だったのでしょうか?


第1回目では野を走り回る子供だったということだけで、子供時代の夢を聞きそびれていました。やはり、創造性溢れる「科学者」だったのでしょうか?


◇古屋さんの子供の頃の夢


【古屋さん】小学生の頃の私の夢は、「外交官」と「眼科医」になることでした。


「外交官」は、未だ見ぬ海外への憧れであり、「眼科医」は、母親の極度な近眼を治したいという単純な思いからでした。ハーバード医学部での研究生活は、その夢の続きのようでした。だから、あんなに夢中で毎日を生きていたのだと思います。


【清宮】「外交官」というのは面白いですね。コミュニケーションに興味があったのでしょうか?それとも外国に興味があったのでしょうか?


【古屋さん】前者です。子供の頃から、「人」が好きでした。外国には、いろんな人がいて、違う言葉や文化の中で暮らしているのだろうな。「そういう人たちと、友達になりたい」というような気持ちでした。


英語が大の苦手だったのにもかかわらず、街で白人に話しかけたり、ペンパル(古い言葉で、年が分かってしまいますね)を作ったりしました。


アメリカに来て、本当に良かったということが沢山あるのですが、ひとつには、「視野が大きく広がった」ということです。


自分を包む世の中をどう捉え、どう考え、どう行動するかは、ひとえに、「自分の目や心」によると思います。


アメリカの、特にコスモポリタンな街、ボストンに来て、自分のものの見方や考え方が、広くなっていくのが自分でも分かりました。


【清宮】なにかエピソードみたいなものがあったら、聞かせてください。


◇世界から見た日本


【古屋さん】DFCI(ダナファーバー癌研究所)に来て、チェン教授の研究室で、一人の中国人研究者と一緒に仕事をしました。彼女は北京大学出身で天安門事件の時もあの広場にいて、その後、アメリカに来た行動派の才女です。


北京でも、短波放送を通じて、多くの世界の情報に精通していた彼女は、日中の歴史認識はもちろんのこと、天安門後に一番に利潤追求のために中国政府に取り入った日本を、そして日本人をも嫌悪していました。


そういうことを考えたことすらなかったその頃の私は、ショックを受けました。


その彼女と一緒に研究し、次第に友人となり、彼女が「Keizo(アメリカではいつでもこう呼ばれています)と出会えて良かった。日本人が好きになれた。」と言ってくれた時の感動は忘れません。


彼女は、今カリフォルニアでIT関連の起業家としてがんばっていますし、今でも友人です。


私自身も、日本では知りえなかった多くの文化、国家、宗教的背景の違う友人たちとの交流を経て、多くのことを学び、また同時に多くのことも伝えました。


そういう意味では、草の根的「外交官」の役割を、沢山してきたと思いますし、これからもしていくことになると思います。


【清宮】氾濫する情報はあるものの、日本にいると、世界の人々が日本をどう思っているかというグローバルな感覚はなかなか実感として掴めないものです。


次世代を担う若い人たちに、是非、米国での研究開発を体験して欲しいという古屋さんの思いには、日本ではつかみ得ないグローバルな感覚もつかんで欲しいという気持ちもふくまれていたんですね。


ダナファーバー癌研究所への派遣は、初めから長期を予定されていたのですか?


◇写真と医薬の違い


【古屋さん】派遣期間は、わずか1年3ヶ月限定でした。しかしながら、いまだに日本に帰っていないわけですし、当時も自分自身「新たな人生の始まり」をどこかで予感してたのかも知れません。


渡米前の2週間は連日送別会でしたが、何度も、「もう帰ってこないような気がする」と言われました。


その当時、私は、癌ミトコンドリアをターゲットにした選択的な新規制癌剤の研究を、1年間必死でして、目処をつけたら帰国して、推進チーム902の仲間と一緒に、富士フイルムから分社化した新しい「医薬会社」を日本で創設したいと思っていました。


しかし、周りの皆には、見果てぬ世界へと夢を広げていた私が、見えたのかも知れません。


【清宮】分社化した「医薬会社」を、と考えておられたのですか?


【古屋さん】明確なビジョンがあったわけではないのですが、「医薬」事業創設は、「写真」で大成功した富士の企業体質やマネジメントのままではできないと思っていました。


課長研修に参加した際、多くの仲間から、新規事業としての医薬事業への過剰の期待があることを感じ、「僕は分社化して独立するから、僕に期待することなく、それぞれ、自分の生きる道は自分で創って欲しい」と、偉そうなスピーチをした事を覚えています。


【清宮】厳しい意見ですが、古屋さんなりの決意表明と、次の世代を担うマネジメント(同期の課長)へのメッセージだったのでしょう。


ところで、写真で大成功した企業体質やマネジメントのままでは「医薬」はできないと思われた具体的な理由は何なのでしょう?


【古屋さん】一言で言えば、「待てない」ということだと思います。研究開始から認可まで10年以上もかかる医薬への投資は、短期サイクルの新商品リリースを駆使した詳細なマーケティング戦略をしてきた企業文化では、理解し難かったし、受け入れがたかったと思います。


【清宮】始まりの段階でビジネスの本質の違いを感じられていたわけですね。その本質の違いに気付いておられたということは、その後の仕事の進展によい影響を与えたのではないかと思います。


渡米後の仕事はいかがでしたか?


【古屋さん】1990年10月、憧れの米国ボストン、ローガン空港に降り立った時の興奮は忘れられません。


限られた駐在期間でしたから、「一日たりとも無駄にはできない」「勇気を持って、前向きに全てのことに挑戦していく」という意気込みでスタートしました。


それだけに、たくさん「失敗」もしましたし、苦労もしましたが、毎日が楽しくてたまらない、というアメリカ生活でした。


【清宮】今の古屋さんを見ていると、当時も前向きに果敢に挑戦していたであろうことは容易に想像できます。


【古屋さん】「勇気ある失敗は、栄光への第一歩だ」と、今でも自分を鼓舞しながら、今でも時に失敗をしながらチャレンジをし続けています。


誰でも失敗は怖いですが、大抵の失敗は振り返ってみると良い経験になっています。


【清宮】私は好きなことをして夢を追い続けようと決心するまで3年かかりました。失敗を恐れずに夢を追い続けるということは実に単純なことですが、実はなかなかできることではないですよね。


DFCIでの研究はいかがでしたか?バイオロジーという新しい領域への挑戦でもあったわけですが、順調に進んだのでしょうか?


◇アメリカで実験。日本とファックス通信


【古屋さん】DFCIでは、L.B. Chen教授の研究室で、持ち込んだ数百個の化合物に加え、次々に日本の仲間から送られてくる新規DLC(Delocalized Lipophilic Cation)化合物の、ビトロとビボの薬効スクリーニングならびにメカニズム研究に没頭しました。


常に何十ものセルラインをキープし(これがなかなか大変で、休みがなかなか取れないのです)、自分の手で試験したヌードマウスだけでも、3000匹に上りました。手を合わせながら、実験をしていました。


蛍光顕微鏡の下で繰り広げられる細胞の神秘に魅了され、時間を忘れて何百枚も写真を撮りました。新しい環境、新しい研究に興奮しつつ、それこそ、朝から夜中まで働きました。


日米は、14時間の時差があるため、夜になると日本とのファックス通信(嘘みたいですが、その当時は、メールがなかったのです)が始まり、夜中にファックスの感熱ロールペーパーを交換したり、朝方まで仕事したこともよくありました。


【清宮】昼間はDFCIでの薬効や作用機序の研究、夜は日本との交信という、大変な日々を送られたように思いますが、その努力は成果に結びついて行ったのでしょうね。


【古屋さん】信頼する日本の仲間のバックアップもあり、DFCIでの共同研究者(先に述べた中国人の研究者も含めて)の協力もあり、研究は予想以上に順調に進みました。


【清宮】日本の仲間のバックアップというのは具体的にはどんなものだったのでしょうか?


【古屋さん】ハーバードの研究所では基本的にはバイオロジーとファーマコロジーを中心としていましたから、最適化のための誘導体合成、DMPK(薬物代謝動態)も日本からバックアップしてもらいました。


また、同じ志をもつ仲間がいるという精神的なバックアップは強力でした。


【清宮】日米でのチームワークでの研究だったのですね。精神的なバックアップというのも、アメリカで、孤軍奮闘の古屋さんとしては、ありがたかったわけですね。


【古屋さん】時々送られてくる皆の写真も、励みとなりました。お花見や、忘年会に参加できなかったのが、とても淋しかったのを覚えています。


これでも、日本人ですからね。それに、アメリカでの仲間もいましたから、やはりチームワークで仕事を進めていったという感覚でした。


この日米のチームワークがなかったら、当時の研究は進まなかったと思います。


まあ、そのようにして、約1000個の誘導体合成を伴った最適化研究により、前臨床候補化合物の創生に辿り着きました。癌選択性が高く、水溶性の化合物“MKT-077”の誕生です。


【参考文献】
MKT-077, a novel rhodacyanine dye in clinical trials, exhibits anticarcinoma activity in preclinical studies based on selective mitochondrial accumulation. K Koya et al: Cancer Res. 1996 Feb 1; 56(3): 538-43.)。

http://cancerres.aacrjournals.org/cgi/content/abstract/56/3/538


【清宮】前臨床の候補の創生に到達したと言うのは、大変な進歩ですね。


それで、初期の目的であった化合物ライブラリーの医薬へのポテンシャルを証明したことになったのではなったのでしょうか?


◇前臨床から臨床へ


【古屋さん】今考えると、変な話なのですが、プロジェクト開始した時点では、「医薬の可能性の模索」ということで、それを「開発」するという大事な部分はほとんど念頭にありませんでした。


前臨床候補品であるMKT-077の創生は、そういう意味では、当初の目的を達成したことにはなるのですが、その時点では、「臨床開発」という新たな目標が見えても来ていました。


特にFirst-in-Class(全く新規の薬剤)の場合、患者さんでのPoC (Proof of Concept)を取れて初めてその価値が証明されるものです。


是非、臨床試験に持っていきPoCまでこの手で掴みたいとの思いを強くしていました。


【清宮】基礎から臨床へ。それは当然の心境の変化ということは分かります。


ただ、医薬品の研究と、その開発というのは、全く毛色の違うものです。そこには壁があったかと思いますが、自分の創りだした薬の卵を、臨床でのPoCを取って、なんとしても自分の手で価値を証明したいと考えたのですね。


【古屋さん】全くそのとおりです。想いが通じたのか、L.B. Chen教授の強力なバックアップもあり、米国滞在期間を延長してもらい、米国での前臨床試験という新たな挑戦に果敢に挑みました。


実を言いますと、臨床第1相試験に必要なIND申請の内容すら、そこから勉強を始めたような状況でした。


それからは、バックアップ化合物の研究開発と並行して、毎週ワシントンDCに飛び、元FDAレヴュアーのコンサルタントを質問攻めにしたり、前臨床試験を実施している製薬企業を訪問してそのノウハウを盗んだり、ハーバード医学部の医師達と話合ったりしながら、前臨床開発デザイン、フェーズ1デザイン、CMC、DMPK試験、GLP毒性試験等などを、CROを駆使して進めました。


【清宮】臨床経験の無い古屋さんが臨床試験を立ち上げるというのは、途方も無い無謀な行いにも思えますが、第1回目で古屋さんの “夢を実現する”能力を知ってしまっただけに、古屋さんならありかなという気がしてしまうのが不思議です。


【古屋さん】まあ、無謀と言えば、医薬研究自体もDFCIでの研究も、同じように無謀だと言えます。「ゼロから何かを創る」には、「不可能を可能にするような大きなジャンプや挑戦」が必要です。


それには、常識を超えた「意志」や「行動」が必要でした。書家であり詩人の「相田みつを」氏の言葉に、「ともかく具体的に動いてごらん、具体的に動けば、具体的な答えが出るから」というのがありますが、具体的に動くことしかなかったのです。


だから、とにかく、動きました。動いては、学び、学んでは、動く。


◇しあわせはいつも じぶんのこころが きめる


【清宮】「相田みつを」氏の本はよく読まれますか?


【古屋さん】アメリカに来てから知りました。私のオフィスにも色紙が飾ってあります。「しあわせはいつも じぶんのこころが きめる (みつを)」。


この詩に出会ったときは、まさしくこれだ!と思いました。私がずっと思っていたことでしたから。


脱線してしまいますが、高校の入学式の校長スピーチで聞いた、「傘屋と下駄屋」の話がとても印象深く、その後の私のポジティブシンキングをさらに高めてくれたので、ちょっと紹介します。


ある母親が、いつも泣いてばかり暮らしていたので、理由を聞くと、「晴れの日には、傘屋の息子が傘が売れなくてかわいそうだ、雨に日には、下駄屋の息子の下駄が売れなくて悲しい」と答えたそうです。


もうお分かりですよね。その母親は、毎日笑って暮らせるようになったのです。「晴れの日には、下駄屋の息子の下駄が売れ、雨に日には傘屋の息子の傘が売れる」わけですから。


【清宮】ピンチの時こそチャンスだとよく言われますが、発想を変えることで目の前の状況が全く違ったものに見えるということよくあることだと思います。


古屋さんは、「基礎の俺にはIND申請は無理だ」と考えるのではなく、「やっと臨床に進むことができる。ラッキー」と考えたわけですね。


IND申請は分からないことだらけだったと思いますが、どのようにして資料をそろえていったのでしょうか?


【古屋さん】例えば、凍結乾燥のガラス瓶の質について分からなかったら、本やコンピューターで調査してその情報で自分なりの判断をするのが普通ですが、私は製薬企業の専門家を訪ねて、ガラスの質について質問を浴びせました。


ガラスの質以外の多くのことも同時に学べました。GLP毒性試験が知りたければ、複数のCROにもすぐに訪ねました。見て、感じて、覚えました。


インスペクションに行って、理解できないSOPを、その場で、懸命に読んで詰問するようなことも多々ありました。コンサルタントと医師との意見が大きく異なり、白黒はっきりさせようと、二人の前で、FDAに電話をかけたこともありました。


週末にCROの社長の家に電話して文句を言ったり、メイン州のスキー場から、GLP毒性試験の犬の死亡について電話をかけて、雪の中で立ったまま、長時間電話会議したこともありました。


そうして、3000ページのINDが完成し、FDAに提出、無事ハーバード大医学部での臨床1相をスタートしました。今から考えると、「めくら蛇に怖じず」だったのだと思います。ただ夢中でやり遂げた。その一言です。


【清宮】そんな過酷な交渉や話し合いを経てついにFDAへのIND申請をやり遂げられたわけですね。


【古屋さん】米国の多くのCROの方々の助けや、ヒヤヒヤしながらも放し飼いにしてくれた(笑)日本の同僚や上司のバックアップがなければ、到底できないことだったと思います。


IND申請資料提出の夜に、お祝いで飲んだ赤ワインの芳醇な味を今でも思い出します。今でも時々、同じワインを飲みながら、「初心に戻る」時間を持ちます。


志を持って頑張れば、「成せばなる」を、このときカラダで覚えたような気がします。

【清宮】DFCIでの研究を目的に渡米したのが、いつの間にか、ハーバード医学部での臨床開発にまで達したわけですね。


【古屋さん】ここまで一気に話してしまいましたが、まだ、富士フイルムでの最初の新薬の卵のIND申請にまでしか辿り着いてませんね。


話し始めると止まらなくなってしまって。しかしながら、この渡米後数年間は、私にとっては忘れられないものですし、今の自分の基礎を作ってくれたと思います。


こうして、自分でも気がつかないうちに、15年のアメリカ遍歴は、いつしか始まっていたのです。


【清宮】基礎から臨床への変換期がどれだけ密度の濃い時間であったかは、製薬を知っている人にはよく分かると思います。


基礎と臨床の両方を経験されたことはその後の活動にとても有利だったのではないでしょうか?


【古屋さん】有機合成から、医薬最適化合成、薬効薬理、医薬前臨床開発(DMPK、毒性評価、GMP−CMC、申請等)、そして、臨床開発。新しい分野を自分で体験しながら次々に学んで行ったことは、その後、医薬R&D全体を考える上で、かけがえの無い経験になりました。


さらにその後、幸運なことに、理想の「医薬研究会社会社」の設立のヒントとなる貴重な体験をする機会にも恵まれました。


【清宮】いよいよ、薬品開発全般が見渡せるビジネス分野に進出されたのでしょうか?


◇理想とする医薬研究開発会社の設立に向けて


【古屋さん】そうです。まずは、MKT-077の導出により、「医薬ビジネスへの可能性を示す」という新たな目標を立てました。


小さなバイオテック企業からグローバルな製薬大企業まで訪ねて導出によるビジネスの可能性を模索しました。


そして遂に、臨床第1相試験の途中という開発初期段階で、Sandoz社(現在のNovartis社)にライセンスが決まり、同時に私自身も、Sandoz社の臨床開発チームに参画しました。


【清宮】Sandoz社とのライセンス提携はどんな内容でしたか?


【古屋さん】具体的なライセンス内容については、控えさせていただたいのですが、その当時にしては、イニシャルフィー、マイルストーンフィー、そしてロイヤルティも含め、破格のディールだったと思います。


【清宮】基礎も初期臨床も知り尽くした古屋さんがいたからこそ説得力のある話し合いができて、破格のディールを勝ち得ることができたのだと思います。


【古屋さん】Sandoz社で、幸運なことに、グローバルな製薬会社の本格的医薬開発を学ぶことになりますが、同時に、大企業特有の官僚的医薬研究開発に疑問を持つ機会も得ることができました。


それが、「自分の目指す医薬研究開発会社を創りたい」という気持ちの原点になっています。


Synta社が掲げる3つのコアバリュー、”Quality of science (高度なサイエンス)”、“Speed of execution(迅速な遂行)”、”Passion for improving the lives of patients (患者さんへの思い)”には、そういう理想の製薬企業への思いが込められています(http://www.syntapharma.com)。


理想とする医薬研究開発会社を創り、患者さんを助ける新薬を創る、という新たな目標に向かっての次なるチャレンジが始まろうとしていました。


〜〜〜〜〜〜第2部終了〜〜〜〜〜〜


渡米後、グローバルな視野を獲得しつつ、基礎研究から臨床開発への脱皮を遂げた古屋さん。


基礎研究から臨床研究への転換期に遭遇したIND申請は、楽しくも過酷な作業であったことが伺われます。


その後、臨床試験中の化合物のライセンス導出というビジネスを経験し、Synta社の企業理念の根幹を成す価値感の原点見出すことになります。


次回は、「患者さんを助ける新薬を創る」という社会的な使命に向けての古屋さんの活動をお伝えします。


お楽しみに!


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2006年03月07日

Arch Gen Psychiatry March 2006; Vol. 63, No. 3

March 2006; Vol. 63, No. 3のOriginal Articlesです。

Heterogeneity in Incidence Rates of Schizophrenia and Other Psychotic Syndromes: Findings From the 3-Center AeSOP Study.
  Arch Gen Psychiatry 2006;63 250-258

統合失調症やその他の精神疾患の発現率は性別、年齢、人種、場所によって有意に変動する。精神疾患の発現には遺伝要因に環境要因が関与しているようだ。


Familial Aggregation of Eye-Tracking Endophenotypes in Families of Schizophrenic Patients
Arch Gen Psychiatry 2006;63 259-264
http://archpsyc.ama-assn.org/cgi/content/abstract/63/3/259?etoc

統合失調症患者の家族における追跡眼球運動の内表現型の家族集積性


Adverse Events During Medical and Surgical Hospitalizations for Persons With Schizophrenia
Arch Gen Psychiatry 2006;63 267-272
http://archpsyc.ama-assn.org/cgi/content/abstract/63/3/267?etoc

統合失調症患者の入院中の有害事象。統合失調症ではない人に比べて統合失調症患者で多く認められる有害事象があった。これらの有害事象は、入院中の統合失調症患者の不良な臨床状態と経済状態と関連があった。


Depressive Symptoms, Vascular Disease, and Mild Cognitive Impairment: Findings From the Cardiovascular Health Study
Arch Gen Psychiatry 2006;63 273-279
http://archpsyc.ama-assn.org/cgi/content/abstract/63/3/273?etoc

痴呆患者にうつ病が多く認められ、うつ病は痴呆のリスクを上昇させるているのかもしれない。うつ病や痴呆が血管疾患に起因しているという仮説が存在する。新たな調査の結果、うつ病は軽度認知障害の発現リスクさせたが、この関連は、血管疾患とは無関係だった。


Onset of Major Depression Associated With Acute Coronary Syndromes: Relationship of Onset, Major Depressive Disorder History, and Episode Severity to Sertraline Benefit
Arch Gen Psychiatry 2006;63 283-288
http://archpsyc.ama-assn.org/cgi/content/abstract/63/3/283?etoc

急性冠症候群に関連した大うつ病の発現。


Opportunities for Cost-effective Prevention of Late-Life Depression: An Epidemiological Approach
Arch Gen Psychiatry 2006;63 290-296
http://archpsyc.ama-assn.org/cgi/content/abstract/63/3/290?etoc

高齢者のうつ病の費用効率が高い予防法の可能性。リスクが高い集団に的を絞った予防策は、うつ病の発現予防に効果的かもしれない。


Augmentation of Exposure Therapy With D-Cycloserine for Social Anxiety Disorder
Arch Gen Psychiatry 2006;63 298-304
http://archpsyc.ama-assn.org/cgi/content/abstract/63/3/298?etoc

社会不安障害の疑似体験療法におけるD-サイクロセリンのアジュバント療法の効果を検討。疑似体験療法におけるD-サイクロセリンの短期アジュバント療法の有効性が示唆された。


Prevalence, Heritability, and Prospective Risk Factors for Anorexia Nervosa
Arch Gen Psychiatry 2006;63 305-312
http://archpsyc.ama-assn.org/cgi/content/abstract/63/3/305?etoc

拒食症の発現率、遺伝、リスクファクター。1945年以降に生まれた男女に拒食症が多かった。また、神経症的性格と拒食症に関連が認められた。


Binge-Eating Disorder as a Distinct Familial Phenotype in Obese Individuals
Arch Gen Psychiatry 2006;63 313-319
http://archpsyc.ama-assn.org/cgi/content/abstract/63/3/313?etoc

過食症は、肥満とは独立して家族内に集積発現していた。すなわち、過食症は、肥満に関わる家族性要因とは異なる要因が関与する家族性疾患である。また、過食症に特異的な家族性要因は、他の要因とは独立して肥満のリスクを上昇させているようだ。


Stress-Induced Cocaine Craving and Hypothalamic-Pituitary-Adrenal Responses Are Predictive of Cocaine Relapse Outcomes
Arch Gen Psychiatry 2006;63 324-331
http://archpsyc.ama-assn.org/cgi/content/abstract/63/3/324?etoc

ストレスに関連したコカイン禁断症状の上昇と視床下部-下垂体-副腎軸反応はそれぞれ特定のコカイン再発転帰と関連していた。この結果から、ストレスに関連した禁断症状と視床下部-下垂体-副腎軸反応はコカイン再発性向の評価の補助になるうると考えられた。また、この2つを干渉する治療法はコカイン依存の再発転帰を改善しうると考えられた。


Suicidality in Pediatric Patients Treated With Antidepressant Drugs
Arch Gen Psychiatry 2006;63 332-339
http://archpsyc.ama-assn.org/cgi/content/abstract/63/3/332?etoc

小児患者に抗うつ薬を使用すると若干ではあるが自殺のリスクが上昇する。

2006年03月06日

古屋圭三さん 【第1回目】

昨日のメルマガでお伝えしましたように、今日は日曜特別号として、Synta社の古屋氏のインタビューの第1回目をお送りします。

バイオインタビューでは、バイオベンチャーを初めとしたライフサイエンス分野で活躍している日本人をインタビューし、彼等がどう思い、どう行動し、どういう結果を生み出し、これからどういう成果を生み出そうとしているのかについて綴っていきたいと思います。


このインタビューの主眼は、専門的な技術の解説ではなく、インタビューをうける人の「人間性」です。難しい専門用語も出てきますが、分からない言葉はとばして読んでいってください。それが分からなくても読み進められるようになっています。


では、古屋氏のインタビューの始まりです。


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目次

 ・バイオインタビューの記念すべきトップバッターは米国のベンチャー製薬企業の上級副社長

 ・古屋さんは実は英語が全然できなかった?

 ・幼少期の経験が創造性を育んだ

 ・製薬会社もうらやむ富士フィルムの多彩な化合物群

 ・幸運の女神、そして渡米

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koya-sama_060301.jpg◇バイオインタビューの記念すべきトップバッターは米国のベンチャー製薬企業の上級副社長


【清宮】
さて、バイオインタビューの記念すべきトップバッターは、米国レキシントンに本拠を置き、現在急成長中の米国ベンチャー製薬企業・Synta社の古屋(こや)さんです。


古屋さんは日本の大学を卒業された日本人ですが、SVP(上級副社長)として、アメリカに本社を置くSynta社の研究開発を引っ張っておられます。


日本人が研究開発のヘッドをつとめるということは、米国バイオテックにおいてもとてもユニークなことだと思いますし、これまでいろいろなご苦労もあったのではないかと思います。


今日から数回にわたって、そんな苦労の日々の出来事を交えつつ、古屋さんのこれまでの生い立ちや経歴、米国バイオテックでの仕事内容、今後のSynta社の展望といったお話を聞かせていただこうと思います。


このインタヴューを通じて、古屋さんの人間性、Synta社に対する熱い思い、そしてアメリカのバイオテックの熱気が伝えられたらと思います。


古屋さん、よろしくお願いします。


【古屋さん】
よろしくお願いします。Synta社と私についても興味を持っていただきまして、ほんとうにありがとうございます。


栄えある第一回のインタヴューをしていただけるということで、恐縮しています。


私自身の実体験をお伝えすることで、日本の医薬品研究開発に携っておられる多くの優秀な方々に、夢と希望とグローバルな視点をもっていただき、より多くの方々が新しい世界での活躍の場を見出していただけたらと思っています。


【清宮】
一歩先を行く米国の状況を肌で感じられている古屋さんのお話は日本のバイオテックの明日を担う人々にとってきっと大きな刺激になると思います。


◇古屋さんは実は英語が全然できなかった?


【清宮】
最初に、私も含めて多くの読者が「古屋氏はどのようにして米国バイオテックでのSVPというポジションを手に入れたのか?」ということについて疑問に思っていると思います。


そこで、これから数回にわたって、アメリカでSVPの職につくまでをお聞きしたいと思います。


アメリカに到達するまでの足がかりとして、今回のインタビューではまず、古屋さんの生い立ちと日本での職業経験などをお聞きしたいと思います。


日本ではどのような生活を送り、どのような仕事されて、そしてどのような経緯で渡米するに至ったのでしょうか?


【古屋さん】
私の過去をお話する前に、自戒を込めて少し脱線させてください。


何かの本で読んだのですが、酒の席の会話では、次の3つの話はしないのが魅力ある大人のルールだそうです。3つとは、自慢話、男女の話、そして、仕事(または子供)の話です。


よく考えてみると、ほとんどの酒の席での自分の話は、上述した3つに入っていたりすることに気がつきます。これ以外で、豊富な話が自然にできるような人になりたいものだと常々思っています。


今回、インタヴューということで、仕事の話にはなってしまいますが、少なくとも、自慢話にだけはしないようにと思っています。


自慢話にしてしまおうと思えば、飛びっきり奇想天外なサクセスストーリーにもできると思いますが、素面(しらふ)での自慢話など、なおさら性質が悪いと思いますから。


特に、前回、なんとも面映い紹介(12人のトップマネジメントの中で、ただ1人の日本人で、ナンバー2の上級副社長云々)をされてしまったから、なおさらです。


【清宮】
失礼ながら、古屋さんの名前を見たときに、Synta社は日系の会社なんだろうなーと勝手に思い込んでいました。


しかしマネージメント一覧をみたら、日本人らしき人物は古屋さんだけでした。


うわぁ、すごいなこの人って感心しました。


【古屋さん】
あのマネージメント一覧を見ると、すごいことのように思えるかもしれませんが、私は、単純に、皆を巻き込みながら、自分のしたいことを素直にやっていきたい。そうやって、ずっと仕事をしてきました。


そうして、自分の居場所を見つけていたら、ここアメリカに辿り着き、Synta社のSVPになってしまったということだと思っています。


そして、これから先どこに行くのか、自分でもワクワクしているようなところもあります。人は、変わりますし、変われます。


人は、「自分になるため」に生きていると信じている私は、本当の自分になるために、「今」を大事に生きていきたい。そういう気持ちで、毎日を一生懸命生きているというだけです。


【清宮】
よくよく考えてみると「自分は何者なんだ?」って一番難しい問題ですよね。


それは、一生懸命生きようとすればするほど答えが遠くなっていくような、そんな矛盾したテーマだなあというのは最近起業してから私自身も身に沁みて感じることです。そこら辺のことは後でじっくりお話を伺いしたいと思います。


生い立ちに話を戻しますが、好きなことをしてきただけという背景にもいろいろな出来事があったのではないでしょうか?そこら辺を具体的にお知らせ頂ければと思います。


【古屋さん】
では、アメリカ15年の大冒険をこれからお話しする前に、英語が一番の苦手だった(実際、今でも苦手なのですが)私がアメリカに来ることにいたる日本での日々についてお話をさせていただきます。


海外での活躍の場を求めておられる、希望溢れる多くの方々に、少しでも参考にしていただき、何かのきっかけや希望にしていただけると幸いです。


【清宮】
英語はだめだったんですか?


【古屋さん】
はい。全然だめでした。しかし、なんとかなるものです。


多くの日本の方々にとって、英語のコンプレックスが必要以上に障害になっているかもしれませんが、英語はコミュニケーションの手段の一つにすぎません。


大切なものですが、単なる手段であってそれ以上のものではないと思います。より大切なのは、「何をしたいか」という目指すものであって、それさえあれば、案外大丈夫なのです。


【清宮】
以前、海外で活躍されている著明な神経学者が、学会で「ジャパグリッシュでいけ」みたいな話をしていました。つまりカタカナ英語で問題ない、躊躇するなとにかくゴリゴリ押していけと。


なかなか難しいとは思いますが、目的がちゃんと見えていれば言語なんてどうでもよくなるんでしょうね。


ところで、古屋さんの目指すものとは何なのでしょか?


◇幼少期の経験が創造性を育んだ


【古屋さん】
「目指す」と言うより、「したいこと」と言ったほうが近いかもしれませんが、「何か、自分らしいものを創りだして、世の中に役立ちたい」という思いみたいなものです。


私の大学での専攻は、「有機合成化学」です。私は、田舎に育ち、野山を駆け回る少年時代を過ごしました。その時に感じた「自然の神秘」が、いつしか私をサイエンスの世界に導いて行ったのだと思います。


それで、大学では、「有機化学」を学びました。イマジネーションの中の「分子の世界」は、とても魅力的でした。


そのサイエンスを活かして、自分らしい、何か新しい「形」あるものを創り出し、自分を育ててくれた世の中に対して、恩返しをしたい。それで、卒業後、私は企業での研究開発の道を選びました。


「モノ作り」への希望を胸に、私は、ファインケミストリーを駆使したイメージングを様々な「形」にしていた富士フイルムの研究開発に参画しました。


入社式での新入社員代表スピーチで、「今、白いキャンバスを前に、何をどう描こうかとワクワクしています」と生意気なことを言ったときの興奮を今でも思い出します。「一日も早く、社会人として、、、」って言うべきだったのでしょうが、、。


さまざまな専門の知識経験を持つ多くの優秀な研究者との、新規な有機反応を駆使したイメージング製品の創造は、実に楽しく有意義なものでした。毎晩、夜遅くまで新規イメージング商品研究開発に没頭しつつ、その一方で、仲間と共に、富士の化学の力を活かせる新規事業分野を次々に提案してきました。


仲間といえば、小さな子供の頃から、何か新しいことを始めるのが好きで、友達を誘っては、様々な「遊び」や「イベント」を企画しては楽むような少年でした。今でも田舎の小学校(母校)に帰ると、その当時私達が創ったものが、まだ残されています。


【清宮】
どんなものですか?


【古屋さん】
生徒会の選挙システムとか、リサイクル(廃品回収で学校の資金集め)とか、タイル壁画のついた野外教室とかです。私がデザインした「友情」をモチーフにしたタイル壁画がまだ残っているのを見つけた時はさすがに驚きました。卒業生皆の記念作品だったので、きっと壊すに壊せなかったのでしょう。


【清宮】
小学校の時から組織を動かす才能の萌芽があったわけですね。ところで、富士フィルムでは、具体的にどのような製品を作っていたのでしょうか?


◇製薬会社もうらやむ富士フィルムの多彩な化合物群


【古屋さん】
富士フィルムでは、新しい有機反応を駆使した、新規イメージングシステムの研究開発を行いました。インスタントフィルムとか、カラーコピー等の製品として、今も世の中に役立っていると思います。


ただ、それと並行して、富士の化学の他分野への展開を模索していました。その当時、仲間と提案した新規研究プロジェクトには、「分子配列制御による新素材」、「新規有機EL発光素子とカラーフィルターによるペーパーテレビ」、そして「医薬」などがありました。


実を言いますと、その当時、私は、「ケミストリーによる壁紙テレビ」のプロジェクトを創ろうと密かに奔走していました。


ただ、「医薬」には魅力があり、サイエンスの視点からは、富士フイルムに、この分野での大きな可能性があることも、認識していました。


【清宮】
動画デバイスという電子情報領域にいくか、「医薬」に進むか迷った時期があったわけですね。


【古屋さん】
そうです。紆余曲折があってこうしてライフサイエンス分野に身をおいていますが、富士フィルムの技術にはいろいろな可能性がありました。


あまり知られていないのですが、カラーフィルムの化学は、ファインケミストリーの究極の世界であり、分子設計、分子反応、分子配列制御等、医薬に通じるサイエンスがあるばかりでなく、医薬メーカーも驚くほどの多彩な分子から成る数十万個とも言われる化合物ライブラリーをも生み出していました。


イーストマンコダックがスターリングドラッグを買収して、医薬事業に参入したのも、そういう背景があってのことでした。


【清宮】
なるほど。富士フィルムも医薬の可能性には早くから気付いていたのですか?


【古屋さん】
気付いてはいました。ただ、医薬研究への挑戦は、多くの先輩たちが提案したもののなかなか実現しませんでした。


しかし先輩達の努力の甲斐があって、ついに1年間の期限付きで、上述した「化合物ライブラリー」の医薬としてのポテンシャルを評価をするプロジェクトが発足し、私は、このプロジェクトへの参画を打診されました。


ケミストリーを駆使した動画デバイスの創造をめざしていた私は、そこで、究極の選択を迫られます。


【清宮】
先立つ先輩方が何度挑戦しても実現できなかったプロジェクトなわけですので、そのプロジェクトがどれほど困難であり、先行き不透明であったかは想像がつきます。


【古屋さん】
とても悩みましたが、医薬の魅力は捨て難く、プロジェクトへの参加を決断しました。その後、私を含めて数人の研究者で構成された「医薬グループ(推進チーム902)」が結成されました。ちょうど、天安門事件やベルリンの壁の崩壊の年のことでした。


◇幸運の女神、そして渡米


【清宮】
社会の激動の中で古屋さんも個人的に激動の年を送っていたわけですね。


【古屋さん】
そうですね。私にとっては、とても記憶に残る一年でした。


ただ、このプロジェクトはとても難しかった。


当初、私は、自分のサイエンスのイマジネーションでは余りにも複雑すぎる「人のカラダの分子レベルでのバイオロジー」に当惑していました。


自分の設計した分子を、人のカラダに入れる。それが、分子レベルで、多くの生体内分子とどう関わりあって、きちんと薬として働くのか。今のサイエンスでは、その真実を理解するのは難しすぎる、というのが当時の私の正直な思いでした。


多種のスクリーニングからの多くのデータを前に、医薬としての化合物ライブラリーの可能性の評価に困難を感じていました。


しかし、そこで思わぬ転機を迎えます。ハーバード大学医学部のL.B. Chen教授との出会いでした。ミトコンドリアをターゲットとする固形癌細胞選択的な新規制癌剤研究をしていた彼との出会いに、我々は新たな運命を感じました。


【清宮】
Chen教授のことはどのようにして知ったのですか?


【古屋さん】
Chen教授は学問的に優れているばかりでなく、それを「形」にする才能やエネルギーにも溢れていました。自分の仮説を、実際の「制癌剤」にするべく、化合物やパートナーを探していました。


同じ時、「新しい芽」を見出すべく、アメリカで情報収集していた富士USAの方がおり、その方がChen教授と我々との接点を創ってくれました。


それを機に、Chen教授は自ら来日し、その運命の出会いが生まれました。Chen教授とは、それからずっと、一緒に「新薬創生」という夢を追って来たのだと思います。


【清宮】
Chen教授との共同研究については、渡米後のエピソードとして楽しみにしています。


【古屋さん】
彼との出会いを通じて、一般的なビトロスクリーニングでの評価を考慮しつつ、具体的な新規制癌剤研究開発に挑戦することで、写真化合物ライブラリーの医薬としての可能性を知ろうと考えるようになりました。


そして、私達はそこに活路を見出すべく、ハーバード大学医学部と契約し、共同研究を始めました。


幸いなことに、写真用に合成していたメロシアニン色素化合物が、予想以上の癌選択性を示し、最適化研究が始まりました。


物理化学(膜電位や膜透過性)や生物学(癌ミトコンドリア)を有機化学(分子設計)と融合させ、私達は、新しい誘導体を何百個もデザインし、合成しました。


そして、それらの「誘導体」と、渡米のための「J-1ビザ」、会社の同僚の期待を携えて、ハーバード医学部付属の「ダナファーバー癌研究所(DFCI)」に、派遣社員として単身渡米したのです。


日本のバブルが崩壊し、ブッシュ(父)による湾岸戦争勃発前夜の、1990年秋のことでした。


〜〜〜シリーズ1回目【完】〜〜〜


古屋氏の日本での活動のダイジェスト版、いかがでしたでしょうか?


科学の神秘を追い求め、創造することが好きだった少年時代。医薬分野におけるファインケミカルの可能性を早くから察知しつつもその扱いに困惑していた富士フィルム時代。幸運な出会いを経て医薬の分野でのファインケミカルの可能性を見出し、ライブラリーの最適化にまい進した時代。


今回のインタビューで古屋さんの一つの性格が明らかになったと思います。それは、古屋さんは創造することが何よりも好きだということです。


日本では、Chen教授との出会いという幸運な出来事を経て、富士フィルムのファインケミカル事業から医薬の芽を育てることに成功しました。


彼の創造性によって芽吹いた誘導体、または彼自身の創造性がアメリカでどのように花開いたか?次回は、そこら辺を重点的に聞いていきたいと思います。


次回は、順調に行けば来週の日曜日に配信できる予定です。


お楽しみに!


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2006年03月02日

Elan社の多発性硬化症治療薬・Tysabri(Natalizumab、ナタリズマブ)のFDA諮問委員会の開催間近

Elan社の多発性硬化症治療薬・Tysabri(Natalizumab、ナタリズマブ)がいよいよ2006年3月7日にアメリカFDAの諮問委員会でレビューされます。

諮問委員会の結果が株価に大きく影響を与えることは必死なだけに、諮問委員会の開催中は、ニューヨーク、ロンドン、アイルランドでのElan社の株取引は中止となります。


去年の2月に販売が中断となってからちょうど1年が経ちます。これまでのプレスリリースから判断するに、Elan社とBiogen-Idec社はかなり慎重に安全性レビューをしてきたように思います。


コロンブスの卵的な発想ができるElan社の研究者・Dale Schenkのファンとしてはよい諮問結果が出ることを期待しています。


ところで、


Tysabriの諮問委員会のスケジュールを見計らったかのように、今日発行のNEJM誌にはTysabriの3つの報告が発表されています。2つは効果に関する報告で1つは進行性多病巣性白質脳障害(PML)のレビューに関する報告です。


今週のNEJM誌は多発性硬化症特集号ともいえる内容となっていますが、多発性硬化症とは別に、もう一つ見逃せないコンテンツがあります。


それはクリーブランドクリニックのMaria Siemionow医師へのインタビューです。


最近、フランスの女性が部分的な顔移植を受けましたが、Siemionow医師は近日中に顔の全移植手術を実施します。


顔の移植手術がなぜこれほどまでに注目を集めるのか?あるいは批判を浴びるのか?顔移植に最適な患者とは?なぜ顔の再建手術ではなくて移植をするのか?手術方法とは?手術が成功したかどうかの基準とは?などの質問に率直に回答しています。


特に興味深かったのは「なぜ顔の移植手術をしたいと思うのか?」というプリミティブな質問への回答です。


インタビューをぜひ聴いて頂きたいのですが、Siemionow医師も、2月19日の情熱大陸で取り上げられた与座聡氏と同じような考えの持ち主なのでした。

 ▽Interview with Dr. Maria Siemionow on her protocol for full-face transplantation.

 ▽情熱大陸  与座聡

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2006年03月01日

取り外し不要の移植型コンタクトレンズ

UT Southwestern Medical Centerのプレスリリースで、STAAR Surgical社の眼球埋め込み型の近視矯正レンズ・VISIAN ICLが昨年末にアメリカで承認されたことをはじめて知りました。

VISIAN ICLは虹彩の裏側に設置されます。いわば取り外し不要の移植型コンタクトレンズのようなものです。


他の近視手術に比べて切開領域をおよそ半分に抑えられることが特徴です。また、LASIKなどの他のレーザー近視手術が適応できない患者でもこのレンズは使用可能のようです。


既にヨーロッパを含む世界41カ国で承認されており、現在まで4万個以上の眼にVISIAN ICLが移植されています。

 ▽VISIAN ICLについて

 ▽LASIKについて

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